その日のこと。 | Go PARADISE Go!

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RUNときどきHAWAII。初フルはホノルル。HAWAIIホーリック&時々海外レース。フルのベストは3:52:43。50分を切りたい。キティーをかぶってますけど、いつだって本気で走ってます。

打ち合わせを終えて、地下鉄の駅に向かって2~3分歩いたところだった。
中野の住宅街の道を一人で歩いていた。
ふと何の音だろうと思っていると周りの建物が振動しているようだった。
「地震?」
見上げると電線が激しく揺れていた。ヒッチコックの映画みたいに。
振動音がますます大きくなり、その場で途方にくれていると
すぐ先の家から女の人が出てきた。
「すぐに終わる、少し大きな地震が来ただけ」
そう信じたいと思いながらも、
「もしかしたら来るべき日が来てしまったのかも。
もしかしてこれがその日?」
私たちは見ず知らずだけれど、手を握り合って
揺れが鎮まるのを待っていた。
家の中から食器が落ちる音がした。
玄関のドアがひとりでに閉まりそうになるのを押さえると
サッカーボールが見えた。
「お子さん!」
子どもは公文に行っているのだ。
これは単なる地震で終わるのだろうか、そうじゃない。
信じたくはないがお互い薄々わかってきたのだと思う。
近所の診療所から先生と看護婦さんたちが出てきた。
「先生のところに行って!早く」
近所の人達が集まってきた。
ものすごい衝撃音と共に道の先にあるブロック塀が一気に崩れ落ちた。
幸いなことにそばを通っていた人は誰もいなかったが
私たちは呆然としてしまった。

やがて、軽トラックが1台止まりラジオの報道を聞かせてくれた。
震源は三陸沖のようだということだった。
都内がこんなに揺れていて、東北はどのくらい揺れたのだろう。
大きな揺れが次第におさまって、皆が家に入り始めた。
「子供を迎えに行ったほうがいいかしら」
女性が落ち着かない感じで言うので
わたしがここにいるのを気遣ってくれているのだと気づいた。
「行ってください、すぐに行ってください。とりあえず駅に行ってみます」
その時点では皆、混乱と言うよりは困惑していたと思う。
一体何が起きてしまったのか。
子どもを二人連れ、ベビーカーを押した若い母親が
「これから札幌まで行くんです。どうしたらいいでしょう」
その日あの母親はどこまで進んだのだろうと時々思う。

当然ながら交通はすべて停止していた。
その場ですぐにタクシーに飛び乗っていたら
どこかにたどり着けただだろうか。
昼食を取っていなかったので駅のベーカリーに入った。
のちのち空腹だとマズいことになるかもという予感がしたのだ。
店にいる間、頻繁に揺れが来た。ガラスや鏡の場所が多かったので、
隅の方に次第に移動。この時点で携帯は全く繋がらなくなっていた。
誰とも連絡がつかない。一応SOSのメールを送ってみるのだけれど。
ワンセグなら入るかも、と思いテレビ画面にしてみると海を一直線に横切っている波が映っていた。ふとコッポラの「地獄の黙示録」を思い出した。イカれたサーフィンをするシーンみたいだ。ヘリコプターが飛んでおり津波警報が出ているようだった。その後、携帯のバッテリー切れのことを考えTVを見るのをやめた。

しばらく店で事態が回復するのを待った。
もちろんそんなことはおこらなかった。
16時になりこのままここにいても
全く埒があかないということは判った。
トイレを済ませ、現金を引き出し、とりあえず新宿まで行こうと決心した。
新宿までたどり着けばどこかに移動できるかもしれない。
青梅街道は渋滞中。タクシーは諦めた。歩くしかないのだ。
歩道も次第に混んできた。途中のコンビニでお菓子を調達。
「これは現実?これからもっと酷くなるの?」

そびえる都庁を見ているうちにふと思い出した。
「新宿から日比谷公園だ!東京マラソン10Kコース!」
10Kなら走れば1時間。走ることが初めて役に立った。
新宿通りを行けば道も大体わかる!
気持ちがかなり楽になった。
楽になったついでに伊勢丹前まで行くことにする。
こういう日にお客様第一主義の百貨店はどうするのかという興味があった。
スタバ等のカフェは早々と店じまいをしていた。
その時点で伊勢丹様はまだ営業中。
新宿通りに向かい銀座方面に歩く。何故か人通りが少なくなってきた。
見たことのない道。どこかで道を間違えたのだ。
会社に連絡しようと携帯に気を取られていたら歩道の段差につまずいて
転んでしまった。ジーンズに穴があいた。
いつの間にか新宿御苑に来てしまった。新宿通りはどこ?
気持ちが折れそうになった。
泣きたい気持ちになったが泣いている場合ではないのだ。
御苑の門はまだ開いていたので心を決めて苑内を横切ることにした。
夕暮れてきた。

その日、御苑から。

ふと思い立って、富山の妹にメールをしてみる。
なんと繋がったのだ。家族の、友だちの誰とも連絡がつかなかったのに
遠い富山とは繋がった。
妹に励まされて歩いた。千駄ヶ谷の門に出てしまった。
駅前の交番で四谷までの道を尋ねると
「ここをまっすぐ進んで左折すれば」
「左折すれば四谷ですか?」
「いや、左折すれば交番があるから」
そこで聞いてくれというありがたいお言葉だった。

そのように交番で道を聞いて、やがて四谷の地下鉄口が見えた。
公衆電話を見つけたが、なんとカードオンリー。
当然ながらテレフォンカードなんか持ってない。うなだれて歩く。
地下鉄口でカートをひいた若い女性が「東京駅まで行きたいんです!」
といっているのが聞こえた。
一度通り過ぎたが思い直して引き返し
「銀座まで行くので一緒に行きましょう」
二人で歩くことにする。
季節柄受験生かと思っていたら、大学生で
「昨日パリから帰ってきた」と言う。
引いていたカートには「そういうわけでどうしても今日図書館に返さなくてはならない本」が入っているのだと。
東京駅の近くにお父さんの会社があると言っていた。会えれば一緒に千葉まで帰るのだと。自宅はディズニーランドの近くだと。
彼女はあの時うちには帰れなかったと思うが、ディズニーランド付近も被害が大きい場所だった。おうちは大丈夫だったのだろうか。人生のほんのひと時すれ違っただけで、これからも合うことはないだろうけれど、一人ひとりいろんな経験を抱えて一緒に歩いていたのだ。

皇居前に来るといよいよ渋滞が激しくなった。上りも下りも。人も、車も。
驚いたのは霞が関から続々と出てくる人々は、ほとんどがヘルメットを被っているか、被っていなくてもリュックに下げていることだった。リュック。
「生き残るつもりなんだ!」
霞が関は生き残るつもりなのだ。そういうところなのだ。

ペニンシュラの灯が見えた時にはほんとうにほっとした。
「HOME」って指輪物語みたいに叫びたくなったもの。

数寄屋橋のガードのところで
「線路沿いに真っすぐ行けば東京駅だよ」
女子大生とお別れし、SONYビルの前の交差点は嬉しくて走って渡った。
やっと帰ってきた。
TVで一時見た波が恐ろしい巨大津波になっていることなど知る由もなかった。

今日の新聞に
「壊れた家の跡や道端に流された人が帰っているのを見ることがある」という記事を見た。濡れているのでわかるのだと。全然怖くない、突然一人になってしまったのできっとさみしくて帰ってきたんじゃないかなと。
「孫たちが食べ終わるのをそばで見守っている」気配を感じる時があると。

きっと今、東北にはいなくなった大勢の魂が帰ってきていることでしょう。