刺激をくれたボランティアさん | やまとうた響く

やまとうた響く

日々の出来事や想いを綴っています。エッセイ風に書けたら素敵なんだけれど。

産まれたばかりの孫に会いに行った娘のところから戻って二週間になるけれど、今も可愛かったなぁ、また抱っこしたいな、と、送られてくるすばるの画像に、まだまだすっかりばーちゃん気分に浸っていたけれど、それでも職場ではすっかりいつもの日々に戻る。

そんななか、三月だけだけれど土日や職員が少なくなる日にボランティアさんが来てくれるのでよろしく、と事務所の方から連絡があった。時間帯などパートの私と同じなので、私が一日付き添って仕事を伝えるようにボランティアさんが来る前日に言われた。

そのボランティアさんは62歳の女性で、4月からはこの地域の短大に入学が決まったから来られないけど、と言う情報を聞かされていた。62歳で短大に入学!?一般聴講生ではなく!?と学ぶことに意欲のあるアグレッシブな人なんだな、と少々こちらも気構えると言うかドキドキしていたけれど、実際にやってきた人はそんなアグレッシブな印象とはほど遠い感じの人だった。

むしろ適度に肩の力が抜けていると言うか、緩い感じのするマイペースで淡々とした人だった。こっちも思わず肩の力が抜ける。けれど几帳面で必要なことはしっかりメモをとって淡々と仕事はこなすけれど、ちゃんと仕事をしよう、と言う意欲は感じられた。ボランティアさんだけれど。

 それにしても62歳から短大に通う、と言うのはよほど強い思いがあったのか、一番気になっていたことを尋ねてみた。すると、やはり淡々と、残りの人生でやり残したことをいろいろ考えた時に、大学に行ってみたくなったから、と拍子抜けする様な返答だった。私が62歳の頃なんて、あと少しで年金だなぁ、それまで仕事続けられるかなぁ、なんて程度のことしか考えてはいなかったと思う。あれから6年、ちゃんと元気に仕事はできているのだから先のことはわからないものだ。

彼女は若い時には大学にはまったく興味がなかったけれど学生生活を過ごしてみたくなって、と、たとえば自分が大学で学んだことを生かして仕事をしたい、とかそういったことは全くなかった。それはそうだろうけれど。卒業した時点で64歳、60歳や65歳で定年になる一般の職場で活躍はできないだろう。

以前30代の契約職員が看護師の資格を取りたいから、と退職したり、別の20代の職員がリハビリの勉強がしたいからとやはり専門学校に行くので退職した、と言うこともあったけれど、二人共若いし、資格を取得したならその方面で仕事をするに違いないけれど、彼女の場合は全くそういう感じではなく、卒業したなら、場合によっては4年生大学の方にに編入するかもしれないし、全く考えてはいないらしかった。

今まで長く生きてきてそんな人に会ったことがなかったので、ただただ驚くばかりだった。けれど彼女は結婚はしなかった様で、家に居てもひとりだし、何かに取り組まなければ調子が狂う、とも言っていた。4月から入学も決まっているのに、それまでの間のんびりすることなく、ボランティアで来る、と言うのもいくらかうなずけはした。

けれど凡人の頭では、一人なら尚更ちゃんとお金を貯めて備えもした方がいいと思うけど、と口にはしないけれどそう思ってしまう。私の中では自分の人生を余生、と 言う感覚で今を生きているんだな、と改めて思えた。

けれど彼女は今をちゃんと生きているんだな、と思う。もちろん彼女の境遇と私の境遇は全く違うから、彼女の様に生きればいいのか、となるとそれはまた全く別のことになるけれど、自分の人生を余生、と捉えているのか、余生などとは全く思わずひたすら今自分の気持に素直に従って生きていく人生なのか、では自分の輝きがまるで違うのだ。

私くらいになると今の仕事も慣れているし、今後自分をまるで違う環境に置く、などと言うことなど考えたことすらなかった。この日々慣れた同じ環境の中でこんな考えの人と出会って自分の錆びつきかけた頭に刺激をもらえたのは非常にラッキーなことだったと思う。

彼女は4月からがとても楽しみだと言っていた。不安もなくはないかもしれないけれど、それより新しい自分の展開の方がずっと楽しみの様だ。

ただ私は彼女が18歳くらいの今の子達のなかで馴染めるか、と言うと浮くだろうな、とは思う。全くアグレッシブさはなく、自分から溶けこもうとするタイプではないのは一日一緒に過ごしただけだけれどわかる気がする。けれどそんなことを気にかける様な人でもないこともわかる。

三月も土日や私が休む水曜日くらいにボランティアに入ってもらう予定だし、4月からは来られないから私は彼女にもう会うことはないかもしれないけれど、自分とはまるで違う道を進もうとしている彼女には頑張ってほしい、と心から思うしエールを送る。

そして彼女からもらった刺激は新しい風の様に私の頭の錆びを少しばかり吹き飛ばしてくれた気がする。今後余生、と言う言葉は封印しておこうと思う。