猫に小判 豚に真珠 | やまとうた響く

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日々の出来事や想いを綴っています。エッセイ風に書けたら素敵なんだけれど。

昨日、リメイク教室で作っていた白大島紬のコートがようやく完成した。本来 春に着るのがほどよいコートなのだけれど、気候的には今着ても悪くはない。



このリサイクルショップで購入した着物から。


このコートになった。


シンプルなこのコートを作り始めたのは、と以前のブログを遡ると、なんと昨年の12月の初めで、うかうかすると1年が来ようかと言うゆっくりぶり。記事には春には仕上げて颯爽と着たい、などと書いていた。


それがこんなに時間がかかるとは💦 春には入院して一ヶ月教室を休んだり、コロナで教室がしばらく休みになったりと言うこともあったけれど。それでも趣味で楽しんでやっていることなので急ぐ必要もないことだ。


そして次の作品に取りかかるのだけれど、同じデザインでもう1枚今度は秋らしいものに、と考えている。そこでついにこの着物の出番か、と思い立ったのが、私が結婚の時のお祝いに、と中学校以来の友人に、彼女のお母さんが織られた大島紬を当時としても破格の11万円で譲って頂き彼女が着物に仕立ててくれたものを贈ってもらった着物だった。




折角彼女が縫ってくれた着物だけれど、着る機会はなかったし、これからもないと思われるので、思い切って服に仕立てなおせば 気軽にいつも着ることができる、と考えた。

大島紬の着物とは本当に贅沢な着物で、高価なおしゃれ着でありながら正式な場面では着ることはできない。お茶会だったり観劇だったりにお洒落に身につけるものだ。そんな着物を若くて髪振り乱して子育てに奮闘してきた私が着る機会はなかったし、今となっても着て行く所もない。膝を痛めてお茶会などにも行けやしない。

そう思って教室に持っていくと、先生や、ベテランさんのお仲間の人達皆が声を揃えて、これにハサミを入れるなんてほんとに勿体ない、と言われる。

でも着ないで仕舞っておく方がもったいないので、と言うと、着なさい!と言われる😥コロナが収まったら行くところを作ってあげるから一緒に行きましょう、とも。

友人に贈られた着物は大島紬の泥染めで、11万円くらいで手に入れられるものではないと言われた。以前先生が泥染めの大島紬の着物で作られた時には50万円だったとか😱確かに以前美の壷、と言う番組で大島紬を扱っているのを見た時にも気の遠くなる手作業を経て作られていた。

大島紬にも勿論いろいろあるのだろうけれど、そういえば私もリサイクルショップで購入した大島紬から二枚制作したし、手触りなどからも友人から贈られた着物はずっしりと重みもあって今までの物との違いはいくらか感じてはいた。

それにしても、そんなに価値がある物とは知らず今の今まで過ごしてきたとは、まさに猫に小判!いや、私の場合は豚に真珠だった。今さらながら友人に感謝と申し訳なさで一杯になった。

そして先生が言われるには、それでもどうしてもと言うなら着付けてあげるから、一度は着物として着てみなさい。そして写真を撮って残してそのお友達にも送ってあげて、それからにしなさい、と言われた。

あぁ、その通りだ。一度も袖を通した写真を送ったことなどなかった。さすが先生!いい先生に師事できた私は幸せだ。深く深く反省と言うのか感動すらした。友人とお母さんは、元々奄美大島の人でお父さんの仕事の関係で山口県宇部市に来ていて友達になった。その後お父さんの定年で奄美大島に戻り今はお母さんと二人で奄美大島にいて彼女は今は機織りもしている。お母さんは97歳で全く健在なので、それでも早く見て頂かなくてはいけない。

と言う事で、この着物は私の再度の膝の手術が終わり、春あたりに着物を着て、それまでは保留と言うことになった。

物の本当の価値がわからない、と言うのはそれだけ気持ちが貧しいのだな、と思える。多くの高価な物を持つことだけが豊かさではないのだと思う。価値あるものは、(職人さんだったり、実際に汗を流す人だったりも)その価値がちゃんと認められてこそ豊かな社会と言えるのだろう。

リサイクルショップに吊り下げられて一律千円で売られている着物、それを私も購入はするのだけれど、いつも購入しながらも何やら罪悪感の様なものを感じていたのは作り手さん達の無念さが伝わってくるからなのだろうか!?。無念さを踏みにじったままの社会は貧しい。そういえば宇部炭鉱の多くの犠牲になった坑夫さんのことを知った時にも同じ事を思った。

今さらながら友人やお母さんに敬意を払うのだった。そして次何を作ろう!?とふりだしに戻った。