その後朝鮮人の子供達は朝鮮学校に転校していきほとんど見かけることはなくなり、いつのまにかその子達のことも忘れていった。そして日本はだんだんと高度成長の波に乗り豊かに発展していった。宇部市も石炭から化学工業へと移っていき発展していった。
久しぶりに一人の朝鮮人の同級生の消息を知ったのは私が18歳くらいだったろうか、新聞の死亡欄で彼を見つけた。死因は車の中でシンナーを吸っていてそのまま死亡していたらしかった。当時の不良と言われた子達の間でシンナー遊びが広まっていた頃だった。
朝鮮人の子供達が皆そうとは限らないけれど、亡くなった子はシンナーに溺れ車の中で(まさか死んでしまうとは本人も思っていなかったろう)命を落とす様な過酷な人生だったのかな、と思うと今も胸が詰まる。もちろんどんな人生であってもちゃんと生きている人もいるのだけれど。当時は自分も若かったから、自分と同じ年の知っている子がこの世にいなくなった、と言うことは衝撃だった。
高度成長の時代の中でも生き伸びてはいても取り残された多くの人生もあった。そして、多くの犠牲の上に成り立った発展であり今に至っていたのだった。そのことを知らない人がほとんどだと言う現実に驚愕する。私も66歳の今になって初めて知ったのだから。
遺骨はいまだに引き上げられてはいないけれど追悼碑は建立されている。それも2013年の建立なので最近のことだ。こうして今ネットなどで事実を知ることになったのもそんなに前のことではないのだろう。ご遺族は遺骨の引き上げを切に願われているけれどまだ実現していない。
今まで宇部市が発展できたのは石炭のお陰で多くの犠牲者の上に成り立っていたのだ。それを知らずに浮かれていた。宇部ダイヤ黒のことを知らなかった、などと言っていたけれど、そんなことよりもっと大切なことを知らなくてはいけなかった。
私が知ったからと言って何も変わりはしないけれど、私は知らずに一生を終えなくてよかった。知ってよかったと思う。きっかけは宇部ダイヤ黒のおかげだけれど。
これから先のふるさとは是非遺骨の引き上げに着手して欲しい。亡くなった命は戻らないけれど、ちゃんとその存在を認識して隠された事実にちゃんと向き合い日に当てなければいけないのだと思う。その一歩が遺骨の引き上げだと思う。遅きに失しているけれど。私も知ってしまった今、二度と忘れられない。
そうしていつかほんとに誇らしいふるさとになって欲しい。あの二本のピーヤが脳裏から離れない。あのピーヤだけは 決して忘れないためにも残しておいて欲しい。事実上の墓標なのだから。