連休中の施設で | やまとうた響く

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日々の出来事や想いを綴っています。エッセイ風に書けたら素敵なんだけれど。

今年はコロナの影響で芸能界でも思いもよらない訃報を耳にしたり、私の身の回りでもコロナではないけれど、思いがけない訃報が多い年になっている。まだ五月ではあるけれど。

先月の今頃は長男の同級生が亡くなり、数日前には以前うちの職場で働いていた人と久しぶりに電話で話をすれば、娘婿さんが脳梗塞で倒れ、あっと言う間に亡くなったんだと聞き驚くばかりだった。

そして職場でも4日の早朝に利用者のお父さんが亡くなられたと連絡が入った。こちらは施設で長く寝たきりだったので急に、と言うわけではなかったけれど、天涯孤独になってしまった利用者を思うと胸が痛んだ。

4日は私は出勤だった。連休中は職員の数も少ない。


駐車場もがらがら。

そんな日、朝イチで今朝○○さんのお父さんが亡くなられた、と聞いた。驚くよりも、とうとう、と言う思いだったけれど、この職員の少ない中、どのタイミングで利用者さんに話すのか、精神的に乱れてしまったらどう対処するのか、と心配が一番先によぎった。

けれど、施設長や課長がすぐさま駆けつけてきて、支えてくれ、葬儀などの関係は、弁護士さんである成年後見人さんが、すべての手配をして下さり施設では、利用者さんを支えるだけでよかったのは救いだった。

天涯孤独になってしまったと書いたけれど、お母さんは私達もお会いしたことがないくらい早くに亡くなっており、一人っ子で、親族もなく、お父さんと二人きりだった。

お母さんの生前は3人暮らしをしていたけれど、利用者さんはストーマケアの必要な病気があり、お父さんだけでは世話が無理になってうちの施設に入所した人だった。

お父さんが高齢になり、施設の勧めもあり成年後見人をつけることになったけれど、そうでなく、ずっとお父さんが家で世話をしていたとしたら、急なお父さん亡き後の利用者さんは、どうにかは行政がするにしても、たちまちいったいどうなるのやら、と思う。

そんな人は多いのではないかと思う。死んでも死にきれない思いだと思う。今回亡くなったお父さんも、知的障害のある娘を残して先に逝くことへの気がかりはいつも持たれていたと思う。

けれど、施設で生涯守られて生きていけることに安心もされていたと思う。こんな時に、ここの利用者さん達を親御さんから託されているんだ、という思いをずっしり感じる。

もちろん親御さんの想いに敵うものでもないけれど、職員が日々忘れてはいけないことだと思う。

それに今の時代、特に最近は政府の対応など多くの不満が出ているけれど、こうして成年後見人の制度などでこういう利用者が守られて安心して暮らせるのは有り難いことだと思う。

これも長い歴史のなかで紆余曲折ありながら今に至っていることなのだろう。今のコロナ対策も初めてのことで右往左往してはいてもきっといい方向が見つかるだろう。

今回も利用者さん以外親族がなくても、成年後見人さんが葬儀の手配から何からして頂いて、後日は納骨までして頂くようになっている。

そして引き続き利用者さんも施設で安全に生きていけるようにさまざまな手続き関係も任せておける。

私達の仕事は、利用者さんの心のケアと、お葬式に付き添うだけだ。

お葬式は密葬で、利用者さん、後見人さん、うちの施設長、課長、そして急遽休みのなか駆けつけた主任が付き添い5人ばかりの御葬儀だったらしい。

この春課長に昇任したばかりの職員の課長としての大きな初仕事になった。

利用者さんも、お父さんの死は理解していて涙を流していたようだけれど、すぐに今日は朝のコーヒー飲めなかったなあ、残していてくれてるかなぁ、と悲しみで乱れることはなかったようだ。施設に帰ってからも耐えている様子でもなく、いつもと変わらなかった。

知的障害、という病気が悲しみから彼女を守っているのがなんとも救いのようでもあり、切なかった。

魂はきっと悲しいだろうけれど、知的障害者の魂のまわりは知的障害という正体不明の何かで被われているような、そんな思いをいつも感じるけれど、悲しみを感じる力も弱いのはやはり救いなんだろうか。

明日から連休も終わり職員も増えていつもの施設になる。いつもと違うのはお父さんを亡くした利用者さんの部屋に大きな遺影が置かれたことだ。