少し回答までお待たせしてすみません。

 

5月は五月雨登校になる親族の子達が、下は幼稚園から上は高校生までおりますので、単純にお迎え人事(両親は共働きの家庭も多いので)などで留守することがあり、ブログ記事をなかなか書きあげられませんでした。コメントの方も返信が遅くなり申し訳ないです。

 

あと、短時間で文章を考えてまとめて、さらに書き出しますので、かなり乱雑でまとまりがない、下手な文章となっています。理解しにくいと思いますが、読み飛ばすなどしていただき、ご容赦いただけますと助かります。

 

早速、ころころさんのご質問へのお返事を書いていきます。

 

お子さんの詳細:


・小学3年生、ASD、ADHDの診断あり

 

・普通級と月2回の通級利用

 

・3歳時:療育センターで相談・様子見の時期が長かった。

 

・小学生になってからの不適切行動に親として焦りを感じる


・いわゆる受動型だと思う

 

・このブログ内で口に手をもっていくことなど相談したことがある

 

・ルールを教えるなどの結果として不適切行動はほとんどなし

 

・かんしゃく・暴言・思ったことをそのままいう(太った人にデブという)等も昔からなし


・いじける、ふてくされる、ひきずるということもなし

 

・発信は弱い

 

・ドッジボール、サッカーなどの遊びはしない

 

・きまった友達とゲームをもって公園へ行く=放課後のすごし方、という状況

(たまにその約束がとぎれることがあり、そういった時に親は少しへこんでも、子供はのんき)
 

・おだやかでかわいい、という印象の子供


・知覚推理、言語理解が少し弱い

 

・きまりのない場面でどうしたらいいのかわからない

 

・ADHDの集中の続かなさ、不注意から本来の力が発揮できず

 

・「親として、本当はかしこいところがあるのに・・・と思っているだけかもしれません。」

・ほとんど興味がひろがらない

 

・「プログラミング、トランポリン、乗馬、親がさそって体験してみますが、その場はたのしむものの、もういいや、という感じ」


・暇さえあればゲーム、テレビを見たいという感じ


・本来 自分のやりたいことしかしたくない

 

・「心と耳のシャッターが自分の都合で一瞬にして開いたり閉じたりしている感じ」



親の情報ほか:


<ころころさんの特性として>

 

・完璧主義

 

・なんでもがんばってきた

 

・人とくらべる傾向がある

 

・子供の特性がわかってからは、子供にはなるべく無理をさせないことを意識

 

・子供に世の中のルールを学ばせる等の努力はしてきた

・子に対して「特性を思えば学校ではトラブルもなくいやがることなくやっているのは十分といえば十分」とも思っている。

 

ご質問内容について:(抜粋していきます)

 

「わかりやすく派手に特性がでている場合、とりくむべきこともわかりやすいと思います。現在の通級でのグループ指導でも、不安の強いお子さん、口調がきついおこさんなどの指導は多いのですが、わが子のようなケースでは普通級の授業をやすんでまで行って結果になるのだろうか、あっていないのではないかと思うことがあります。」

「わたしにはADHDの特性がないため、返事をしているのに何もきいていなく、何度も忘れ物をしたり、ごほうびがなければ何もしなかったり、おばかなのか というようなことをされるといらっとしている自分にきづいています。」

「小1 夏のWISCⅣで 言語理解97 知覚推理87 ワーキングメモリー120 処理速度113
全体としては高くも低くもないですが、親としてはもっとできるはず、と数値にひきずられているのかもしれません。」

「主人は子供に似ており、がんばること、こつこつつづけること、などしたことがないと思います。その分こどものことはいつまでもかわいい、かわいいで指導というものがなく、将来のために教えようとわたしがきつくなってしまうとすぐに責めてきます。

そのままを受け入れることと、今できることを取り組もうとすることは両立しないのでしょうか。こどもがうまく対応すればするほど、親として多くを望んでしまう、というだけのことでしょうか。」

「できれば凸の部分をのばしてあげたいのに、テレビだけで日々すぎてしまうのがくやしい、今できることをしていないのではないか、とあせります。親も近くにおらず、夫は同じ考えでなく、一人で考え子供の相手をするのに疲れてしまっています。

なんとかなっているなら多くを望むべきではないのか、自分のこだわりでなってほしい子供になってもらおうとしているのか、特性が大きく見えず、おだやかな子であるだけに、わからなくなってきました。スカイさんのお知り合いにはこんなタイプのおこさんはいらっしゃいますでしょうか。」

 

以上がご質問でした。

 

端的にお返事をすると、

 

・精神的な特性部分や認知の歪みに対する内面の成長と

・社会の中での「学習や活動」という目に見える成長と

 

両方を、実感できる形で成長してもらいたい、という部分があるのかな、と思います。ですが基本、発達障害の子は「発達年齢相応」という遅延している部分があるので、障害として特性を診断されているわけです。よって、精神的な部分での土台が「ある一定基準」に到達するまで、社会面での活動が停滞しているかのように見える、いわゆるやる気が感じられないとか、自信を持った言動が見られないとか、そういうことが起こりうるわけです。

 

人間、とくに卵からかえってまだ年数が10年そこそこのヒヨコな子供には、精神的な部分での「自分自身に対する自信」や「自分で言動することが実っているという実感」を感じないうちは、それ以上の動機や意欲となる原動力=パワーを持ち合わせていないので、自然に活動量が減ります。

 

不登校をしていて、親族が堂々と「不登校で大丈夫」と言い切るのは、心身が健康でパワーを蓄えている実感を親として感じるからであり、逆に疲弊して、パワーを失って動けなくなるのであれば「心身の健康を取り戻すことが最優先」となるのです。

 

日常でもこの「順番」が成り立ちます。

 

頑張ってもらうには「自分に対する自信が1つでも、ある程度でも持てた」ときであり、「自分が言動したことの結果が、自分が実感できるほどに充足していた、という経験」のどちらかが必須です。これが発達障害の子の閉じた目や感覚を開かせるきっかけになり、またパワーになり、また「人と違っていてもいい」という自己肯定につながります。

 

ご主人が特性がおありだとして、お子さんを肯定している言動をされているということは、誰が否定しても「自分は頑張っていることがある」と一つでも自信を持っていて、それを支えに生きておられるからではないかと思います。例えば、自分は仕事をして稼いできた、とか、どんなにつらくても伴侶を見つけて結婚をした、家族を持てて、子どもがいる、とかそんなことです。

 

ご主人がもし、「がんばること、こつこつつづけること、などしたことがないと思います。」ということであれば、今、ころころさんのご家族は存在しておらず、また今、お子さんを見守るお父さんとして、そこに存在していなかったはずです。家族という形は、どんな場合でも、結婚に至るまでや結婚後の継続に関しては、根気や気力、体力を要求する形ですし、すぐに嫌い、嫌だ、と関係を絶つ他人のように、楽に構成できるグループではありません。どこかの部分で「継続性」や「コツコツ」が生じているものです。もしご主人が働いている・稼ぎがある、というのなら、それが一つの大きな結果です。

 

そういう見えない「継続性」や「意思力を発揮した場面」や「判断力」を、ご主人は人生の中でしてきた結果、仕事や結婚という結果、お子さんがいるという結果につながっているので、「~という部分がない」と言い切らず、こうした見方もある、と半々の表と裏、利点と欠点を抱き合わせで考えることはおすすめです。それが同じように、お子さんを見るときに「利点と欠点」「ダメと思えることが良いと思える表と裏」を、発見するきっかけとなります。

 

 

お子さんの現状は、ころころさんの期待する「目に見える成長」ではないかもしれません。ですが、学校と療育とをこなし、荒れることなく日々をこなしていることに、何かダメではない利点があるはずです。

 

例えば、

 

「将来につながる精神的な安定、心身の健康というパターン付け」や

「他人(親)に動じない、マイペースさをある程度保ち、不安や判断力のなさでオロオロしながら過ごさない」などの自分軸の在り方、

「他人の価値観を丸のみして、その他人の評価に左右されない人生を歩む」

 

などの、自閉症スペクトラムの子らしい、マイペースを「良い方に」発揮したときの安定性です。

 

「悪い方」に発揮した場合、

 

「次どうしたらいいの?これでいいの?」

「怒られた、自分はダメなんだ」

「がっかりされてる、自分はもっと頑張らないと好かれない」

 

と、他人(先生や母)の評価を気にして、オロオロしながら、不安いっぱいで泣いて、学校が怖くて、何がどう嫌なのか聞いてもわからなくて、という状態と違うわけです。心の中をこうした「不安や自信のなさ」でいっぱいにして、ひたすら他人(親)の目標で頑張ったとして、成果を上げて褒められても、「親が誉めてくれた行為が嬉しい」のであって「自分が達成したことが本当にやりたいことで満足して充実感・達成感を味わっているから嬉しい」ではなく、つまり「成果が上がって嬉しい」のは自分の目標ではないため、スキルが無駄になることがあります。心が疲れて自信がないまま、気持ちの伴わないテクニックとしてのスキルを身に着けても「使えずに、自分の中に閉じこもる、不安と自信のなさで迷走する」大人になる可能性はないか、という部分です。

 

さらに気になるのは「いつやる気になるのか」

 

だと思いますが、自分に自信が持てるきっかけ、自分を肯定できるきっかけ、そういう出会いや経験が「やる気スイッチ」であることがほとんどです。受動型の子だと、それが「自分がやってきたことで、比較的続けられたことの中で」という消極的な選択であることもあります(主人はこのタイプです)が、それが自分では「継続できたこと」と自覚がないと、自信は伴いませんので、第三者が「これとこれは、なんとなく続いているね、すごいねぇ」と時々、話していれば、自信という「形」に変わっていくことがあります。

 

ですので、勉強にしろ、習い事にしろ、「そこそこ」や「できないこと」に時間をかけて、やる気がでないままだらだらするよりも、「たった一つ、夢中になること・なれること」に全力を注いでみる、そういうものを見つける、ということをやるか、「感覚鈍麻な部分があって、感情の把握が苦手だから、何となく、これ!というものについても鈍麻で把握できない。だから、何となく続けられるものを続けて、それを強みとする」ということのどちらかです。

 

お子さんは後者のタイプなのかな、と思います。が、実は判断がつきません。

 

判断がつかない理由の一つとして、子どもへの関わりで順番が私達と異なる部分があります。それが「ゲームを与えるタイミング」や「テレビの存在感」です。子供が自分が夢中になれるものや、夢中というほどではないけれど、いろんなものに関わること、「やってみること」を楽しめる、興味関心が持てる、という状態になって、はじめて

 

「ゲームもその、興味関心の一つ」として、特性上、引き付けられすぎないように親が貸す、という状態から少しずつならしていく」

 

ということを、かなり慎重にしています。ゲームは定型の子よりも、非定型の子達にとっては「特別な機械」と感じるからです。

 

・楽をして楽しめる

・達成感も感じる

・余計なことを考えず純粋に「ゲームの世界だけ」で楽しめる(自閉特性とシンクロします)

・自分にデメリット、不利、嫌なことをほとんどしない(負けても最悪、リセットすればいいから)

 

など、利点ばかりで、やめたくなる、途中でやめようと思う理由が「何一つない」のです。こんなに便利ですばらしい、手軽に満足が味わえる「魔法の機械」を手放そう、という子供がいるはずもなく、ましてや

 

「めんどくさい用事のため」

 

「自分にはどうでもいい、片づけのため」

 

「すごく嫌いな宿題や勉強のため」

 

に、魔法の機械からもらえる満足や楽しみをあきらめるなんて、どう考えても方程式が成り立ちません。ゲーム機を手放すこと自体がもう、すべて「嫌なこと」にカテゴリー分けされてしまいます。これは百ぜロ思考も影響します。そしてADHDの要素がある子ほど、この特性がゲームに吸い付きます。快楽に弱い部分や、めんどくさがり、ただやるのが楽しい、そういう特性にベストマッチしてしまいます。

 

よって、ゲームをさせる初動として、ゲームの危険性を必ず教えて、現実とは全く違う、依存症にもなる、心身を疲れさせることもある、生活をまともに送る可能性も妨げる、魅力的すぎる機械なのだ、大人でも夢中になるぐらいだから、と伝え、子供が管理できない難しい機械なんだ、だから管理は大人がすると宣言しています。

 

テレビも同じです。受動型で「受信する一方」で発信が少ない子は、TVが楽です。それより大変なことはしたくなくなります。そこでADHDの快楽主義的な特性が合わさると、「1日テレビをだらだら見ている」という状態になりやすいです。よって、特性に合わせた対処は必要となります。

 

そのうえで、好きな習い事や、得意な科目の塾などや、「やっててまあ楽しい」というレベルだけど継続することが苦痛ではない、そこそこレベルの習い事などを「魅力ある人、ネタをたくさん持っている人は社会で生きて行きやすい、友達との会話もしやすくなるし、そのために」とゲームより優先させ、残った「余暇」の時間で1時間だけとか、週末、宿題もやり、習い事も終わった、というときにやっと「思う存分」週末のご褒美でやる、という中高生が多いです。

 

小学生は理性が弱く、のめりこむことが多く、いくらルールを決めようと「中断させられたら相手(親)を恨む」という単純な感情に支配されやすいので、そういうことにならないように、学習ゲームなどから初めて、純粋なただゲームして遊ぶ、というのは後回しか短時間または小出しにしています。機械は貸出し制なので、仕事で親がスマホを使う、と言えば返すしかないですし、DSは基本、祖父母宅に置いて自宅に置かないなど工夫しています。(祖父母が購入してくれた=祖父母宅だけでしていいもの、というスタンスです)

 

 

話を戻します。

 

上記を考えると、今の発達段階で、プラス魔法の機械を手にしている日常生活だと、なかなか「最高に楽しい、楽で面白い物=テレビとゲーム」以外のものをやろう、という気持ちは起こりにくくなっている状態では、と思います。定型の子でもゲームやテレビを手にすると他の事をなかなかやろうとしない、と聞きますので、非定型ののめりこむ自閉性を生まれ持つ子は、ゲームやテレビの世界で閉じることはたやすいので、組み合わせが最高すぎて他のものが入る余地がないように思います。

 

ですので、このゲームやテレビの部分から少しずつ具体的に取り掛かられるといいのでは、と思います。

 

現状の大半の部分の根底が、たぶんですがゲーム・テレビと気力、やる気のなさと連携して全部つながっているのではと思うからです。親としてやきもきする部分は、お子さんの視点がゲームの自閉世界から出てこないと、今は「現実世界はぼやんとしている」感じで、何を言っても響かない、ゲームの世界だけがリアル、という気楽さ、世界のどちらに比重が置かれているか(夢中というより気楽で気が合う、なじむ、自然体でいられるという感覚的なものです)という問題です。

 

現実世界に違和感があり、ぼんやりしていて、その世界で頑張れと言われても世界に違和感があるのでまずできない、自然体でやれるゲームの世界がいいなぁ、というのが子供の本音なの「かも」しれません。あくまで親族の子のケースでは、です。

 

ゲームに執着してガツガツするタイプでない子ほど自閉している時はその子が「自然体」であることが結構あるので見落としがちになりますが、その「自閉している自然体の状態」が仕事になり、好きな習い事や頑張れることなら、おそらくころころさんの賛同を得られたと思いますが、ゲームやテレビの世界で自閉しているだけだと、どれだけ熱心に集中してゲームをやっても、毎日コツコツ時間をさいてゲームをやっても、継続してゲームに取り組んでも、嫌がらず自主的にゲームをやろうとしても、無理なく長時間取り組むことができても、褒められることもメリットも「現実世界」では見えてこないので、逆にゲーム以外はやる気をなくしたように見えて困ったことになるケースがあるのだと思います。

 

ですが「自主的にやる気を出している片りん」=継続性、やる気、意欲、集中力、人から言われなくてもやる自主性のスキルなどはすべて、ゲームの際には自然に発揮していることと思います。習い事とゲーム、やる気の注ぎ先が違うだけで、結果が異なるということです。

 

 

 

次に、WISCからわかるように、一番低いスコアと高いスコアの間が30以上ありますので、親族の場合は30以上の差がある子については「下の低い方のスコアの発達年齢相応のことを基軸に親が判断する」方針にしています。これには理由があり、発達凸凹の子は得意と不得意の差が激しいので

 

・ どこを評価して導けばいいのかわかりにくい

・ できる部分に注目するとして、どこまでチャレンジさせるのか

 

などを親族間でも長い間、それこそ試行錯誤し、結果的に自然と、「下の部分のスコアで発達年齢を確認する」というやり方に落ち着きました。

 

極端な例ですが、たとえ話をすると、アメリカなどでたまに見られる10歳で天才頭脳の子が飛び級で大学に入ったとします。話も通じるし賢いからと言って、同級生の18歳以上の大学生と共に笑い、騒ぎ、あちこちに移動し、成人の年齢の子達とパブでビールを飲みながら対等にやれるか、というと、それは現実には難しそうです。身体的な「発達年齢」は10歳です。10歳としての、ビールを飲めない弱い体、成人とは異なる体力の弱さ、不完全で経験不足(認知力や語彙力が低い=得る情報が少なめ)、という事実があるからです。この10歳部分の現実を「発達年齢として確認すべき事項」と考えています。

 

ということで、当たり前なのですが、「今の現状で発達がやっと、の部分」を「これが自分の子どもの発達年齢」と見定める事は、あらゆる他のことを考慮する時の基準とするために、とても大事になってきます。できない、のではなく「成長段階がまだその年齢である」と考えます。

3歳の子に中学での行動を強いることがないのと同じで、発達年齢相応、というものを大事に考えています。

 

少し説明を加えてみます。具体的な例ですが、運動会へ出る、という場合。この基準を使います。

 

落ち着いている受動型の子は問題なく、時にはしっかりして見えるかもしれませんが、言語力や知覚推理が少し低い子は、同級生よりも「物を覚える力=記憶力は優れていても、覚えた内容を本当の意味で理解していることは7割、8割がた」と親側で理解できますので、それを前提に準備をしたり、理解しているだろう、と決めつけず「同級生は言われなくても理解しているだろうけど、この子はまだ丁寧に説明しておいたほうがいい」という風に、補足していくことができます。子供によって「うっかり」する点や、「すぽっと抜け落ちる」点は独特ですので、子供の特性に合わせて補足する感じです。実際に親族の小学生が親から説明されていた内容で、最近の例は、

 

・走る場所は「自分のコースの白線内だよ。白線から出て隣の人の場所に入ったらダメだよ」という白線の意味の説明と認知の確認(うっかりと忘れて、または意識すること自体がすっかり認知から抜け落ちていて斜めに走ったりするので)

 

・走り終わったら、指定の場所に座る事(自分は50m走に出るんだ、ということだけを教えていると、そこで自分のやるべき仕事が終わった、と後の「指定の場所に座ってみんなが走り終えるのを待つ」をすっかり忘れている場合があり、ふらっと自分だけ戻ろうとする)

 

などがその例です。言わなくても定型の子の大勢は団体行動をしていれば、それは当然のこととして行動しますが、自閉症スペクトラムの子は、何度か独特の解釈のことを繰り返しやることがあります。長期記憶が弱い子も、幼稚園ではできていても、小学校という新しい場所では「同じ場所ではないから」という理由で、若く経験不足もありうっかりと独特の解釈をした言動をすることがあります。

 

 

療育のことに関しては、そういう意味で「非常に、とても当たり前で常識的なこと」を見て、聞いて、言葉で覚えていくという、特に受動型の「自分の気持ちを把握しにくい」だとか、物静かで発信が少ないために「認知の歪みが表に出てこないけど、生まれ持った歪みを備えている」子の場合は、数打ち当たれ、ではないですが、

 

・ 他人の子がしていることと、先生の言葉を聞いて「これはダメなんだ、これはOKなんだ」と初めて知ることもある

 

・ 他の子がする「予想もしない言動」を見て聞いて、社会でそういう言動をする人もいるんだ、その言動はいいこと・わるいことなんだ、とカテゴリー分けして情報として知識にする

 

などで、隠れた力になり、実は、成人したころに大きな差となったりします。その結果がパートナーさんの話、例えば私の主人からわかります。受動型の子は「言わない」分、また「発信が弱い」分、理解していないことも理解していると思われて育てられることもあります。特に言動にたくさんのおかしさがなければ、特に問題化することもなく育ちます。が、成人してから

 

「なぜか、をわからないまましていたら、大人になるごとに通用しなくなってきた」

 

「何か、具体的にわからないけど、これでいいはず、と思っていたことが常識外れと言われた」

 

など、言動におかしさがなくても、本人の中で「理解しきっていない」まま大勢のマネだけしていた、というあれこれが結構多く、よって仕事をはじめると「うわべだけのやり取り」ではすまなくなり、きっちり、がっつり会議や話し合いで意見交換をするようになり、アイデアを提案・実践し、理論で相手を説得する、妥協する、という機会がどっと増えて、同僚や上司と上手くいかなくなり、「なんだかおかしい」ということに本人がやっと気が付く、ということになったりします。

 

でもなぜ「おかしいのか」具体的なことはわからない。常識だ、と切り捨てられるけど、常識と言われたことの詳細やどういう状況で、どういう時が「普通」なのかがわからない、という悩みが生じたりします。よって悩みすぎると、鬱病などの二次障害を発症しやすく、それが大人の発達障害の発見に至ることになったりしています。(受動型のパートナーさんのケースは仕事がきっかけで二次障害、というのが多いです)

 

よって、療育というのは受動型の子には「療育者と関りがないから役に立たない」のではなく、もともと発信量がかなり少ないため、その反応として受け取る情報量もかなり少ないということを考慮すると、「他人の言動のやりとり、特に療育者と同じクラスの被療育者のやり取りを傍観する」ことは、知識量をためるという意味ではかなりのメリットとなります。しかも学校の教室とは違い、学習で気が散ることもない、療育が目的の「療育部屋」という閉じた空間であるので、「見て知って記憶する、考える」という学ぶ環境としては向いています。

 

最後に、

 

「そのままを受け入れることと、今できることを取り組もうとすることは両立しないのでしょうか。」のご質問部分は、例えばテレビやゲームの部分で両立できます。特性ゆえの現状と、今最もしたほうがよいこと、取り組もうとすることの両立は、「自然な自主的な興味が出て、自主的にやる気を出して、自分から継続的にたいした苦もなくコツコツとやり、やった時には集中もする」というスキルがすでに備わっている部分を今はゲームに注ぎ込んでいるので、その凸部分を凹みとしないために調整していく、ということがすなわち「両立である」と考えます。

 

特性は武器にもなり、また足かせ的なものにもなります。このブログの主軸が「自分の発達特性をできるだけよく理解し、それを上手く利用して、心身が健康な状態で社会で過ごし自立し生計を立てる。そして人生をそれなりに楽しむ。」ということですので、ノウハウ的なことの多くは、特性の理解と使い方になっていると思います。

 

あと、「自分のこだわりなのか」の部分に関しては、このお返事を読んだ後に判断してみるのも一つです。どの部分が「自分の考えと現実の現状とに差が出ている」かを判断し、そこを改善していくのかを親側の課題としてとらえてみるといいかと思います。自分のやり方で、メリットとなっている現実、デメリットな現実、表裏の両方を考える癖をつけると、自分を客観視することができます。メリットと思えることが時にはデメリットであり、デメリットと思えることにもメリットがあったりする。その両方を考えないとほどよい「バランス」が取れない、という風に私達は代々教わってきています。

 

どちらか極端に偏る傾向のある私達一族ですので、他人の第三者の視点を借りても確認したい部分はここであるので、よく親族同士や友人、ご近所さんと情報交換をして「他の人の見方を仕入れる」ことをします。その考えを採用する・しないではなく、「そういうものの見方があると知る」ことから、自分の思考と世間一般の間のバランスをどうとるか、調整をどうするかを逆算して考えたりします。

 

上記でおおよそのご質問には、違う迂回したお返事ではありますが、まかなえたかと思います。

 

「凸部分を伸ばして上げたい」と思う親の気持ちを、「凸部分が望まない所(テレビやゲーム時)で多用されているとしたら、それを調整して、使っていない方向性(学習や習い事)に向くように、具体的に対策していく」と、望みと結果がつながると思います。

 

具体策は現場で考える必要があることなので、じっくり、小さいことから少しずつ焦らず、大きいいきなりの結果ではなく、小さい変化を目指して色々試してやってみてください。その小さなトライをいくつも経験した後に、凸部分が望む形で伸びる実感が得られるかと思います。

 

 


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