感想 獣の奏者( ネタバレあり) ①主人公エリンと壮大な世界観
お久しぶりです。風邪で体調を崩したり、リアルの仕事やプライベートが忙しくて最近筆が止まっていました。
気がついたらもう夏も終わり。早いものです。
さて、久々に何かブログを書き始めるとしたら何がいいかとふと考えたところ、夏の終わりから秋の空の下で読んでみたい気持ちになる、私自身の人生に影響を与えた名作の一つである上橋菜穂子作『獣の奏者』にしたいと即座に決まりました。
まず、作者の上橋菜穂子先生は『精霊の守り人』シリーズや『鹿の王』でも有名な作家で、最近では『香君』が出版し、国際アンデルセン賞作家賞など様々な賞を受賞されたベストセラー作家でもあります。また、文化人類学者としての側面もありオーストラリアの先住民族アボリジニについて研究しています。
『獣の奏者』は、闘蛇編・王獣編・探求編・完結編の全4巻とさらに外伝である刹那を合わせた5巻が出版されています。
闘蛇編・王獣編は2006年に出版され元々はこの2冊のみで完結の予定でしたが、続編を望む待望の声があがったことやアニメ化により読み直しているうちに構築された続編が探求編・完結編として2009年に出版され、さらには2010年に闘蛇編・王獣編と探求編・完結編の間の話を外伝として刹那が描かれております。
また、シリウスでコミカライズもされており、活字が苦手、まずはどんな話かざっくり知ってみたいと思う方は、そちらから読むのもおすすめです。個人的には漫画版の登場人物達のイラストの方が脳内のイメージに近いデザインかなと思います。
獣の奏者に引き込まれた経緯は、2009年に放送されていたNHKのアニメ「獣の奏者エリン」をふと見始めたのがきっかけです。
ちなみに、獣の奏者のアニメはNHKの50周年記念の節目として制作されています。
アニメでは原作の始まりである「母の指笛」の前に、5話ほど幼少期のエリンの日常と物語の世界観の説明を兼ねた話があり、その辺りの話を見ているうちに興味を持って見始めたのがきっかけです。本編開始の幕開けを吹き鳴らす『母の指笛』からジョウンとの新しい生活、一筋縄ではいかないリョザ神王国の不穏な描写など見ているうちに引き込まれて原作が気になり、読んでみてどっぷりハマっていったという経緯です。
OPのスキマスイッチさんの『雫』もすごく素敵で心を震わせる曲であり、母との幸せな生活から一変し時の濁流に飲み込まれ打ちひしがれたエリンを光(リラン)が照らしていくという映像と歌詞が相まって、これからエリンの身に何が起こるのか、どんな運命が待ち構えているのかと想像を掻き立てられました。
個人的な見どころや感情が湧き立つ部分はさまざまな箇所があり掘り下げて語ってきたいところですが、1冊にあたり約400ページ×4+1ととても分厚く濃ゆい内容ですので、語り出したらキリがなく長くなります。そのため、今回は闘蛇編を中心に主人公のエリンとその世界観に絞って語っていきます。
基本的に、闘蛇編を中心にしていきますが、後半である王獣編はもちろんのこと、続編の探求編・完結編やアニメ版も時折混ぜた感想を述べていきますのでそちらはご了承ください。
-
簡単なあらすじ
400年前、神々の山脈の向こうから訪れ、人にけして馴れることのない獣<王獣>を従えた神々の子孫である王祖ジェが興した<リョザ神王国>。王祖の子孫として国を治める<真王>と国の国防を担う<太公>の二つの主君と領土に分かれている。大公領では、隣国からの侵略から守る最大の武器として<闘蛇>という獣を戦の要にしており、<闘蛇>を育てる集落である<闘蛇衆>で母と共に暮らす主人公のエリン。
エリンの母・ソヨンは闘蛇の世話を任された優秀な<獣ノ医術師>であるが、流浪の民族である<霧の民>でありながらも一族を破門した身の上で村では複雑な立場に置かれた存在。
ある日、ソヨンが世話をしている闘蛇の中でも特に強い力を持つ<牙>が突然大量死してしまい、その責任を背負わされたソヨンは野生の闘蛇が生息する沼に突き落とされる方法で処刑されることになる。母を助け出そうと闘蛇が蔓延る沼に飛び込むエリンだが、ソヨンは娘を救うべく<大罪>と戒められ刻み込まれてきた霧の民の禁忌の術を使い指笛で闘蛇を操ってエリンを逃し、自らは命を落とす。
母を失い天涯孤独となったエリンは、流れ着いた真王領で蜂飼いのジョウンに拾われ、蜂飼いの仕事を手伝いながら一緒に暮らしていくことに。その暮らしの中で、ある夏の日の谷で真王の権威を象徴する獣である<王獣>と出会い、我が子を食らおうとする闘蛇を一瞬にして葬る姿とソヨンの指笛に似た鳴き声から母と重ね、エリンは王獣に心惹かれていく。
その4年後、ジョウンの身体が弱ってきたことやジョウンの息子が父を王都へ連れ戻しに訪ねてきたのを機に、エリンはジョウンの旧友が教導師長を務めるカザルム王獣保護場の学舎で獣ノ医術師を目指すことを決意。
そこで、エリンは真王誕生祝いの際に真王暗殺騒動で矢傷で生死の淵を彷徨い、心身ともに傷ついた王獣の仔・リランと出会う。リランを自分の境遇と重ねたエリンは救いたい一心で治療に付きっ切りになる中で、王獣と出会った時の様子やソヨンの指笛などの自らの経験と才能を活かして思索思案していく末に、琴の音でリランと心を通わし王獣を操る術を編みだす。
…が、「決して人に馴れない獣、決して人に馴らしてはいけない獣」と伝えられている王獣を、意図せずとも操る術を持ってしまったエリンは国の命運をかけた争いごとに否が応でも巻き込まれていくことになる………。
-
舞台説明と国を象徴する獣
物語の舞台は、リョザ神王国という神々の子孫と伝えられる一族である女王<真王>と、その真王を守る臣下として領土を離れ戦陣に臨む将軍<大公>の二人によって国を治められた国。
法などの行政や政治の中心地で<権威>の象徴である<真王>が治める真王領と国防を担う武力を担い交易や食糧が富んでいる<権力>の象徴である<大公>が治める大公領の二人の主君と二つの領土に分かれています。
現在の真王のハルミヤは就任して50年ほどになる穏やかで優しい老女王。大公は原作では名は明かされていませんが、アニメ版ではオランという名の武人で息子が2人(続編の探究・完結編では娘も1人いることが判明)います。
<権威>と<権力>が二分した二つの国にはそれぞれを象徴する獣がおり、真王の権威を象徴する<王獣>と大公の武力を誇る<闘蛇>。
大公の<権力>の象徴であり、リョザの最大の武力である武器である<闘蛇>は、二本の角と四本足を持った大きな龍や蛇、トカゲのような姿をしており、闘う蛇の名の如く兵を乗せ軍馬もしくは戦車のように敵陣を猛攻します。基本的に沼や湖などの水辺に生息し、水陸両用に動けますが、陸に上がっている時は西洋竜やトカゲ、水の中を泳ぐ姿は東洋龍や蛇のような姿に見えます。大公領には戦の要である闘蛇を育てる闘蛇衆という集落がいくつか存在し、他の闘蛇衆たちとの対抗意識と誇りから育てた闘蛇を自慢し合うため、背びれに独特の切れ込みを入れてどの村の闘蛇か見分けがつくように印をつけています。
真王の<権威>の象徴である<王獣>は、白銀の狼と猛禽類を合わせたような生き物で前足が翼になっており、人ひとり背負って飛ぶこともできるほどの大きさを持ちます。野生の王獣は白銀の翼で飛翔し、竪琴に似た鳴き声で雛や仲間に語りかけますが、保護場で飼われた王獣は空を飛ぶこともなく、また毛色もくすんでいます。野生の王獣はなかなか人前に姿を見せず数も少ないため、真王の誕生祝いなどの祝宴の際に王獣の雛を捕らえて真王に献上する慣わしになっています。
また、王獣は闘蛇の天敵であり、王獣の威嚇音を聞くだけで闘蛇は硬直してまるで身を捧げるが如く食われるのです。
王獣も闘蛇も国の都合で人に飼われ姿や役割、生態は違うものの、どちらも国が決めた掟に厳密なまでに育てており、特滋水という薬草を配合した水を飲ませ、音無し笛という人間には聞こえないが獣には聞こえる音を発生させて王獣や闘蛇を一瞬で硬直させ気絶させる、さながら犬笛を音響兵器にしたような物で制御します。
また、飼われた獣は王獣、闘蛇いずれもなぜか生殖することはありません。
人の都合で飼われ人や掟、政治に縛られ生きていく獣たちに、エリンは憐れみと葛藤、そして疑問を抱きます。なぜ獣を王獣規範などの掟で縛り本来の生態を歪めていくのか。獣を縛り付ける掟の謎に迫り、愛する王獣達を自由に育てたい一心で王獣規範から背いた育て方を手探りしていくがその行為は最大の禁忌でもあった。
同じ国でありながらも2つに分断された国の象徴である決して人に馴れぬことのない2体の獣は、主人公のエリンの運命に大きく関わっていくことになるのです。
-
成長するエリンの物語
主人公・エリンは、大公領で闘蛇を育てる闘蛇衆の村出身ですが、<霧の民>とのハーフでその特徴である緑色の目が特徴的で身長も高めです。ちなみに<エリン>という名には作中では<山りんご>という意味があります。
『獣の奏者』という物語を書くきっかけを作者である上橋先生は『決して人に馴れぬ孤高の獣に向かって、竪琴を奏でる娘』の光景がよぎったと語ります。その『竪琴を奏でる娘』……のちのエリンが『決して人に馴れぬ孤高の獣』……王獣に向かって、何をしているのだろうかと考えていたときに蜜蜂の養蜂に関する本を読んでいて『生き物の不思議に心を震わせる少女』の物語を思いついた。そんな経緯が『獣の奏者』王獣編の後書きに書かれています。
エリンの母・ソヨンは<霧の民>という薬学や医療の知識が豊富であるが、真王・大公のどちらでもないどっちつかずの放浪の民で世間から離れた独特な文化を築いた民族の出身でしたが、父と結婚するため一族から抜け出し闘蛇衆の村に嫁いだ身です。
霧の民の隔絶された特殊な文化から、一般的には特殊な秘法を使うと気味が悪いと畏れられ、エリンが産まれる前に父が亡くなってしまったのもあり村人からは敬遠されています。村で暮らしていた頃の霧の民の血を引くエリンも奇異な目で見られ<魔がさした子(アクン・メ・チャイ)>と呼ばれて傷つくことも多々ありました。
優秀な<獣ノ医術師>であった母・ソヨンをとても尊敬しており、その影響で好奇心旺盛な性格に育ちます。特に生き物に対する関心は抜きん出て強く、普通の女の子が好みそうなオシャレな衣服や装飾よりも、生き物やその習性に目を輝かせたり、普通の人なら近づくのも恐れる闘蛇を時を忘れて眺めたり、触ろうしたり、蜜蜂の巣箱が気になって不用意に近づきすぎたり蜂の産毛が気になって触って刺されたりしては、ソヨンや後の育て親でもあるジョウン、エサルによく叱られたりすることも度々あるほどです。
そしてとても聡く、母の死の原因となった大量死した闘蛇の匂いが変わったことや滅多に見ない羽虫が寄っていることに気が付きソヨンを驚愕させたり、一度聞いた音や歌をほんの1、2回で完璧に覚えてしまったり、王獣舎の掃除を任される意図にすぐに気がついて糞の観察をし、王獣の症状を言い当てたりとしています。
エリンは母の教育の賜物と生きづらかった境遇や別れの経験から、とても大人びており会う人会う人に実際の年齢より上に見られたり、話し方や振る舞いが大人っぽいとよく言われ、実際年齢よりも年上に見られたり「山奥の湖のような静けさ」を感じられると称されたこともあります。
母との別れを経験したことから、変化というものは突然襲いかかるもので、変わらない幸せがいつまでも続くということはあり得ないと悟った部分があり、母の命を奪う大元となった<掟>や何かに自由を縛られることに大きく反発しています。
ーこの世に生きるものが、なぜ、このように在るのかを、知りたいのです。
-生き物であれ、命なきものであれ、この世に在るものが、なぜ、そのように在るのか、自分は不思議でならない。小さな蜜蜂たちの営みが、信じられぬほど効率がよいこと、同じ蜂でも多様多種であること、なぜ、それらが、そうであるのかを考えると、果てしない問いが浮かんでくる。自分も含め、生き物は、なぜ、このように在るのかを知りたい。
『獣の奏者』闘蛇編 第四章・カザルム王獣保護場 2.入舎ノ試し p247より
上記の文は、獣ノ医術師の勉強をするための学舎への入舎試験で書いた入舎理由についての作文です。
文章から見て取れるように獣や生き物に対する探究心が貪欲なまでに強く、真っ直ぐなまでに純粋で躍動感すら伝わってきます。アニメ版では学友や先輩から「王獣一直線」と称され、王獣への探究に直向きすぎて寝食や試験のことを言われるまですっかり忘れるほど。
物語は獣や生き物の生態に、そして決して人に馴れることのないと言われた王獣に心を奪われたエリンの数奇で波瀾万丈な生涯を10歳、14歳、18歳、20代前半と節目に描いていきます。年齢が繰り上がり章が変わると共に、エリンを取り巻く環境が移り変わっていくのです。
大公領での平穏な母娘の暮らしからソヨンが処刑され、流れ着いた真王領にて命の恩人のジョウンとともに蜂飼いとして暮らしていく10歳編、<獣ノ医術師>を目指すためジョウンの旧友のエサルが教導師長をしているカザルム王獣保護場の学舎での学寮生活と幼獣・リランとの運命の出会いが14歳編、最上級生として卒舎ノ試しを受けるさなかリランの変化と災いの兆しが18歳編、そして20代編ではカザルムの新米教導師から王獣を操れる唯一の存在として権力争いの陰謀に巻き込まれ。雁字搦めになりながらも打開策を思案していく…と、このように様々な人や獣との出会いと別れを繰り返し、彼女自身の内面も目まぐるしく変化していきます。
序盤の10歳の時に母・ソヨンが闘蛇を大量死した責任を取らされ、<闘蛇の裁き>にかけられ野生の闘蛇に喰い殺されて裁かれようとするのをエリンが闘蛇の群れの中へと飛び込み(幼いながらに縄で縛られているのを見越して賢く短刀を用意しています)母を助けようとしたが、ソヨンが自分の命と引き換えに霧の民に伝わる掟破りの禁術で闘蛇を操ったことで闘蛇に乗せられたエリンは命拾いはするも、ソヨンはそのまま闘蛇の裁きを受けて死に別れるところから始まります。
母との永遠の別れを経験したエリンは闘蛇とともに川を流れ真王領で打ち上げられたところを蜂飼いをしているジョウンに助け出され、傷心状態の中行き場のないエリンは彼の仕事を手伝いながら暮らすことになります。
彼と過ごすうちに心身共に癒されていき、元高等学舎の教導師長であったジョウンに類稀なる才能を見込まれ生き物のことを学んでいきます。
ある夏の夜の谷で、薬草を採りに出かけたジョウンを心配して追いかけたエリンは天翔る白銀の獣・王獣と遭遇します。王獣は雛を襲おうとする闘蛇に威嚇音をあげ、猛々しい闘蛇を最も容易く仕留め我が子を守る姿とソヨンの指笛の光景を思い出したことから、王獣にを母と重ね、心を奪われていきます。
そして、こう疑問を抱くのです。
なぜ、闘蛇を操ることが大罪なのか。母はあの時、その気になれば共に逃げられたにも関わらず死を選んだのか。
と、その疑念が晴れぬまま4年が過ぎた頃、身体が弱ったジョウンの元へ息子が戻るよう尋ねてきたことを機に、エリンはジョウンと別れ、彼の知人であるエサルが教導師長をしているカザルム王獣保護場の学舎で<獣ノ医術師>を目指すため学びながら暮らすことになります。
なお、エリンは学舎に入舎してからジョウンと再会することは叶うことなく、病による訃報を息子の心無い手紙にて知ることとなります。せめて死に目くらいには会えるだろうと思っていた身としては、読んでた当時衝撃でした。アニメ版ではエサルと共に、ジョウンとの思い出を偲ぶための傷心旅行する話があり、原作の淡々とした別れ話であっさり終わってしまった心情を暖かく補填してくれる内容となっていました。
カザルムでの規則正しい共同生活に四苦八苦しながらなんとか馴れてきた頃、エリンは幼獣のリランと運命的な出会いを果たします。
リランは『光』という意味を持った名ですが、親から引離れて真王の誕生日祝いに献上させられたさい、真王の命を狙う暗殺者が放った矢をかすめたリランは心身ともに傷つけられた恐怖から食事も取らず、暗闇の中で日に日に衰弱していく状態。
そんなリランの境遇に自身の生い立ちと重ねたエリンは感情移入し、寝食忘れてリランに付き添い試行錯誤の手探り状態で手を替え品を替えながら助け出そうとします。野生の王獣と出会った経験を活かした新しい発想でリランの回復への兆しを模索していくなか、王獣の鳴き声が竪琴の音に似ていていることに気が付きます。
さらに、毛布をかけた状態で奏でた竪琴の音色にリランが反応したことに感触を得たエリンは改造した竪琴(形はスイカを6か8当分したものやヨットの帆の弧を描いたような形。もっと具体的に言えば横浜のグランドインターコンチネンタルホテルのようなもの)でリランへの呼びかけに成功し無事リランは餌を食べ、名前の通り『光』を浴びれるようになるのです。
エリンとリランの間には種族を超えた絆が生まれ、友のような母娘や姉妹のような(ちなみにリランは雌、女の子です。雌であることがその後に大きな意味を持ちます)な関係になりますが、そこがエリンにとっての最大の分岐点となります。
決して馴れることのない獣と心を通わせ、白銀の翼で空を飛翔し、子を成すと飼われていた王獣ではあり得なかったことを繰り返し起こしていくリラン。それを見た霧の民は、王獣と心を交わすこと自体がかつての災いを引き起こした<大罪>であり最大の禁忌であると警告され、抗えぬ政治争いの渦に飲み込まれていく。それと同時にエリンはそれを痛感させられざる得ない状態へと陥っていくのです。
王獣編および及び18歳編〜20代編を交えた主な話は次回にしたいと思いますが、エリンが年齢とともにわかることや変わる考え方が印象的です。
例えば幼い10歳の時にはわからなかった特滋水を与えることで弱くなってしまう部分が大人になってから生殖機能に関わっていることに気づいたり(正直、掟抜きでも子供には説明しづらいと思います)、生徒から教師になったことで教えることに対する責任に葛藤したりと心情の変化が章と共に歳を重ねていく構成だからこそできる見せ方だと思います。
時と共に、歳と共に否が応でも人は変わり成長していくもの。物語の登場人物は私的にはこれくらいシビアに変化に富んでいる方が寂しい部分もあれど好みではあります。
エリンの好奇心の強さと一度気になると周りが見えなくなる探究心は、大人になってからも健在でそれがエリンの原動力であり物語や人を強く突き動かす。時にさまざまな命を救い、今まで人々の頭の中で固めていた概念を音を立てて崩していくような発見をしていき、掟や戒律に対する反旗を翻すかの如く挑むのですが、その芯を強く貫き通すことがかつて一国を崩壊させた<災い>を引き起こした<大罪>への扉を開いてしまい、戻れないところまで足を踏み入れていくことに結びつくことになるのです。
エリンの好奇心という衝動に突き動かされる姿に、飽くなき探究心に読んでいた当時とても心を惹かれました。
蜜蜂の養蜂の風景や王獣に心を惹かれて目を輝かせ、新たな発見やリランと絆を通わすたびに心を弾ませる生命力溢れる姿はとても煌めいて見えて震えた心に感動の爪痕を刻み残したのです。
掟や戒律に縛られ、その枷が当たり前のものとして受け入れて生きてしまっている国で、ただただ獣を王獣をリランたちを自由に生きさせたいと、どんなに超えようのない難題が立ちはだかれども真っ直ぐ暗中模索で挑むように追求していく。考えることをやめたくない諦めたくないと奮闘していく。助ける方法があるにも関わらず<戒律>を守るため知られぬために見ているだけで誰かを見殺しにすることなど耐えられず飛び出してしまう。
時にそのせいで取り返しのつかない大きな代償を払い、打ちひしがれ、叫びたくなるような衝動にかられ、虚しさの天地に慟哭すらかき消されてしまう切なさにすらも思わず魅入ってしまい、目が離せなかった。
なにも縛られることのない、縛ること縛られることも嫌う心のまま自由でありたいエリンの躍動感に私は心が響かされたのかもしれない。
エリンは決して特別な人間ではない。産まれこそ特殊な民族の血をひき壮大な人生を歩んできたが、エリン自身はあくまで獣を王獣を愛するただの一般人で、周囲が魔が差した子と怖れるような魔術を使えるわけでも、彼女1人で国を動かすわけでも救うわけでもない。国を動かしかねない発見や知識や重要な場での人や獣の命こそは救ったやも知れぬしその突破口を作った身ではあるやもしれぬが、実際に国を動かし変えていったのは真王や大公の一族たちや要人たちの一人一人が働きかけたもの。彼女自身は蜂の群れの一部か流れの一つでしかないのだ。
おまえの思いを知りたくて、人と獣の狭間にある深い淵の縁に立ち、竪琴の弦を一本一本はじいて音を確かめるように、おまえに語りかけてきた。
おまえもまた、竪琴の弦を一本一本はじくようにして、わたしに語りかけていた。
(中略)
おまえにもらった命が続くかぎり、わたしは深い淵の岸辺に立って、竪琴を奏でつづけよう。天と地に満ちる獣に向かって、一本一本弦をはじき、語りかけていこう。
未知の調べを、耳にするために。
『獣の奏者』王獣編 終章・獣の奏者 2.弦の調べ p410より
それでも、今の現状を変えたいと、王獣たちを何者にも縛られない自由に羽ばたけるよう望む一心で、ただただ竪琴の弦を弾くように語りかけ、探り続けてきた。そんなエリンに私は涙が溢れるような感銘を受けたのだ。
-
引き込まれる世界観と日本との関係
作者である上橋先生がオーストラリアの先住民族アボリジニの研究している文化人類学者でフィールドワークもしている方なので、世界観がとても壮大かつその土地柄によるの暮らしや風俗、風習がとてもリアルで細かくにそして独創的に作り上げられています。
私は、『獣の奏者』を紹介する際によく大体のあらすじを世界観と共に説明する噛み砕いて説明するのですが、エリンの生い立ちと大公領と真王領の関係を説明するとどうあっても約15分ほどかかります。
それほど、土地柄一つでここまで深く掘り下げて世界観を構築できるのは、上橋先生が文化人類学者として、研究拠点であるオーストラリアを中心とした19カ国の国をフィールドワークしているからこそでしょう。
物語の舞台となる<リョザ神王国>が築き上げたのは約400年前のこと。争いで滅びの淵にあった国に神々の山脈(アフォン・ノア)から金の髪と瞳を持った丈高き王祖ジェが降臨した。王祖の前に王獣が守護するように羽ばたき、闘蛇が首を垂れて道を作ったと、人にけして馴れることのない獣たちを従える姿を見た民たちはジェに神の威容を感じ、彼女に王として国を治めてほしいと懇願した。そこから人々をまとめていった王祖ジェは<リョザ神王国>の礎を築いた。
実は初代真王であるジェには一族が代々厳密に隠した大きな秘密があり、過去の誤ちを二度と繰り返さぬようその戒めから無闇な殺生や戦を嫌い兵を持たぬ王として国を収めていくのです。<真王>が一族の娘のみが受け継ぐ女王制であるのも、戦争をむやみに引き起こさないようにという思いも込めてでしょう。
しばらくの間は王祖の理念を貫き平和でしたが、残念ながら平和というのはいつまでも続くものではない。数世代経って隣国に攻められた際に自らの首を差し出そうとした真王を遮り、領土を離れその御身を穢して守ると申し出た臣下たちが<闘蛇>を戦に駆り出し、志をともにした者達が多く集いはじめ土地柄が豊かで作物が育ちやすく外商も盛んなため勢力を拡大していき、いつしか一つの領土して国防を担うようになります。
が、時とともに初代が掲げた高潔な思想も薄れはじめ、攻め落とした数々隣国から金品などの戦利品を貢ぎ物を差し出すようになり、争いや穢れを嫌う真王はそんな略奪のような行為を忌み嫌い最初は拒みます。しかし、真王領は山がちで貿易にも恵まれない貧しい土地柄と清廉な質素な暮らしの国柄のため大公側の貢ぎ物で財政をつながなければ民たちはもちろん貴族すら生活もままならないほど貧窮している。そのため真王は大公からの貢ぎ物を供物として渋々受け取らざるを得ない状態でなんとか保たれている。
真王と大公の二分した国は、政治を担う真王や貴族たちなどの身分は高く、学術方面も盛んであるが貧しい<真王領>と国防を担う武力と食料や金品など富を持つが、身分が低い<大公領>。
分裂した二つの民たちの大きな軋轢が根底で腐敗し始めていて、戦を知らぬ真王領民の貴族たちは大公領民を血で穢れた穢らわしい蛮族だと<ワジャク>と蔑称し見下し、大公領民たちは気位だけは一人前なくせして大公側の恩恵で食い繋ぐ貧しい真王領民たちを<ホロン>と呼び扱いに不満を募らせ、両者ともに毒を蝕んだ状態なのです。
アニメ版では、終わらぬ戦に犠牲出し疲労困憊しているにも関わらず、誰にも賞賛されず蔑まれ続けそれでも戦い続けるしかない惨状に嘆きを表した「嘆きの歌」という挿入歌があります。葬送曲のようなもの悲しさ、救いのない現状に対する無念を表現したような重々しい曲調。届かぬと知りながらも嘆きを叫ばずにはいられない傷つく大公領民達から、決して目を逸らすでないと突きつけられたようです。
この二つの国の関係は、現代の日本とアメリカの関係の関係に重なる部分が多いと思いました。日本は第二次世界大戦後、日本国憲法第9条による戦争を起こさない・核兵器を持たないことを法律で決められていて、戦をすることを禁じ嫌う真王領と重なる部分も多いです。水が豊富で田んぼや作物が育てやすく主食は米であるなど大公領の地形や食文化は日本と似た部分も多いですが、政治や信仰面は新王領に似通った印象が強いかと。
さらに、明確に軍を持てない日本の代わりにアメリカ軍が他国の勢力や侵入からの防波堤の役割を担っています。さらに経済や資源方面はアメリカによる影響が強く、支援に助けられている側面も通じるところがあります。
真王と大公のように主従関係なるものはありませんが、兵を持たない日本の代わりにアメリカが他国からの侵略を防ぐ国防の役割として矢面に立っている関係やそこから発生するいざこざや憤りもよく似ています。
国の情勢に不満を抱きながらも国民の心に刻み込まれた真王への信仰心の根深さからなんとか表面的には均衡を保っていたのだが、現代真王であるハルミヤが3歳のとき<血と穢れ(サイ・ガムル)>と呼ばれる大公推進派の反乱組織が真王の御殿に火を放ち、権威と地位・権力と富が二つに分断された国にとうとう大きな歪みがあらわになります。先代真王と幼いハルミヤは一命を取り留めたものの、ハルミヤの母は命を落としてしまう。
その後、先代は火事による後遺症で心半ばに崩御し、祖母の死後わずか5歳のハルミヤが身の丈に合わない冠を被ってから50年あまり。今では心優しく寛容で聡明な性格から国の母のような存在として国民に敬われ慕われる真王ハルミヤですが、真王領民と大公領民の未だ埋まらぬ軋轢に心を痛め苦心しています。
一方の大公は、揺るぎない忠誠心を刻みハルミヤ真王に敬意を称しているものの終わらぬ戦争と御殿放火事件以降、益々悪化した大公側の信頼回復と二つの民の軋轢という出口が見えない難題に疲弊し、元来の無骨で昔かたぎの武人肌ということもあり強引な手段を選びがちでよく長子のシュナンから歯止めをかけられています。
この辺りの世界観の説明は、小説ではこのあたりのお国事情は真王誕生祝いを中心とした三章の1節16ページ分を使って一気に語られていくのですが、アニメ版だと映像で一気に世界観を説明するのは困難かつテンポも悪くなるので、うまく要点を絞りながら話数で分けて説明すべき部分を分担した上で演出していました。
例えば小説のように真王誕生祝いに全てを語るのではなく、戦さに疲れた大公領民達の描写と大公兄弟の決別を大公一族達の視点で1話、真王領民と大公領民の軋轢と御殿放火の説明をイアル目線から1話というふうに、説明する項目を一話ずつ分けて視聴者の頭に入るように提示していくのが上手いなぁと思いました。
国王を神と信仰し敬う風習は、まるで第二次世界大戦以前の日本と天皇と国民のような関係だと思いました。
以下の文章は実際に第二次世界大戦を経験した私の祖母の話を参考にしたものだが、かつて第二次世界大戦以前の日本では天皇は現人神(うつひとがみ)として天皇を神として崇めるよう、国民は教育されたということです。その絶対的な信仰心から、日本の兵隊たちは皆口々に「天皇陛下のため、お国のために死ぬ」のだと出征していたという。
人々は毎日、天皇陛下に日の出と共に祈りを捧げ、絶対的な神として崇拝していた。
私の祖母が小学生の時は、校門入ってすぐ校庭にある小さな森にある<奉安殿>という天皇と皇后の御親影が祀られているお社に必ず手を合わせるという規則があったほどだという。そうして今日一日が始まるのだと語ってくださいました。
第二次世界大戦終戦後、時の昭和天皇は当時のアメリカ連合総司令官の元へ赴いた話があり、国民の多くが自分たち民の罪を担って昭和天皇が捕らえれて最悪首を差し出す覚悟だろうと噂されていた。
が、天皇陛下は無事に帰されたという。
のちの話では、アメリカ陸軍元帥に軍人達は「日本人は天皇陛下を絶対の神と信仰しているので、その天皇を殺めてしまうと国民が承知せず、また混乱を起こすだろう」と助言したというのをこちらも祖母から聞いた話です。
この物語の舞台となるリョザ神王国の世界観および政治、土地柄、特徴はとても複雑かつ深く、そしてリアリティを感じさせます。全体的に世界観は全体的に東洋文化風でいわゆるアジアンファンタジーで、和風とも西洋風ともまた違った異国情緒があります。
特に料理に関しては、上橋先生の食に対する好奇心やさまざまな国を旅しているため食文化の造詣が深いため、架空の国ながらも食事一つでその国の土地柄や文化が伺えます。
例えば、エリンが最初に生まれ育った大公領の主食はご飯つまり米であり、土地柄が豊かで水も豊富な平野のため稲などの作物が育ちやすい大公領ならではの環境ですが、それに対し物語の大半の舞台となる真王領は山がちなため作物が育ちにくく年によっては変動も激しいため稲よりも雑穀や麦の方が育ちやすく、ファコという雑穀を挽いて作った粉で作った無発酵のパンを主食にしています。
こういうふうに主食一つでも国の土地柄や地形、生活が伺えますよね。
また、真王と大公の領民の他にもう一つ部族があり、そのどちらにも仕えない民族が<霧の民>でエリンの母・ソヨンの出身です。元々の名前は<戒律を守る者(アォー・ロゥ)>であり、時と共に音が濁って<霧の民(アーリョ)>と呼ばれるようになり、二つの王どちらにもつかず霧のように一つの場所に留まらず人里離れ他族との接触を避けて暮らす独特な文化を持っています。<戒律を守る者>の名の通り、過去に起きた災いを引き起こさねため<戒律>を守り<掟>に従うことを厳しく叩き込まれた一族で、災いの元となった大罪を犯す者が現れぬよう見張る監視者でもあります。戒律や掟を守ることを何よりの行動原理にしており、家族の命よりも掟を優先するほど徹底してます。実際にエリンの祖母であるソヨンの母が、娘の死を悲しむよりも娘が戒めを破ってしまったことに嘆いており、戒めを破り罪人になろうとしている孫のエリンを糾弾したりしています。
そんな一風変わった風習で暮らしていた霧の民出身のソヨンは、最後の晩餐に故郷に伝わる料理でもある猪肉の葉包み焼きという猪肉を味噌や甘い果実と一緒に大きな葉っぱに包んで薪をくんだ地炉で蒸して焼く民族料理をエリンに振る舞います。
一つの場所に留まらずに旅から旅する霧の民の風習から窯を使わない料理が多いだろうと、上橋先生が想像しながら自身の経験を活かした創作した料理ということです。
ちなみに、こちらは上橋菜穂子作品に登場する料理を現実世界でも作れるように研究し再現した料理本『バルサの食卓』(新潮文庫2009年)に書かれていた文章を参考にしています。ご興味のある方は是非ともそちらもご参考ください。どれも美味しそうな異国料理ばかりです。
独特な料理や調理方法だけでもその民族の風習や習慣が垣間みれるのですから、食文化とはとても深いと改めて思いました。
漫画や小説などの作家は食事や食文化をどれだけ上手く描けるかによって腕前が評価されるとも言われているほどですが、食一つでも侮れない大切なルーツの一つであると実感できます。
上橋先生の造詣の深さと豊かな想像力が紡ぎ出した壮大な世界観はスケールが大きく、世界観そのものが物語の大きな軸として存在感を示しています。
代表作である『精霊の守り人』シリーズや本作の『獣の奏者』などで登場する様々な国の特色とその国が織りなす政治劇がとても濃厚に浸透した物語は上橋菜穂子先生の最大の特徴の一つであることは間違い無いでしょう。
余談ですが、『バルサの食卓』(新潮文庫,2009年)を参考にファコと猪肉の葉包み焼きを実際に作ってみました↓
上:真王領の主食である無発行のパン、ファコ 下:ソヨンの思い出の味である猪肉の葉包み焼き
ファコはバターと蜂蜜をたっぷりつけたのをミルクを浸して食べるのが真王領では一般的。王獣編では肉汁に漬けた食べ方もありました。ちなみに上記のファコはコーンミールが見つからなかったので、たまたま見つけた大豆の粉で代用してます。
猪肉の葉包み焼きは、猪肉じゃない葉包みじゃないというツッコミは無しで。スペアリブに味噌とマンゴー(キウイやバナナなどの柔らかい果肉系)を刷り込んだのをアルミホイルで包んでいます。
どちらもとても変化の富んだもので、美味しくいただきました。他にもいろいろ美味しそうな料理が載っていますので、作ってみたいです。
-
悲劇の人ソヨン
<霧の民>でエリンの母であるソヨンは、この物語にとって彼女を語らなければ『獣の奏者』は語れないというほどとても重要な人物です。
<霧の民>の外観的特徴は長身で緑の目をしていて、作中でもエリンの緑色の目は何度も話題になり注目されます。緑の目をしているだけで一瞬で霧の民たどわかり、なぜこんなところにいるのかや王獣との関わり方に対しては霧の民の魔術でも使ったのではと勘ぐられることもしょっちゅうです。
本来ならば、<霧の民>のとして民族以外の人間との関わりを持たず、掟で決められた相手と結婚し一生を隠者のように暮らしていくはずだったソヨンですが、闘蛇衆の頭領の息子であるアッソンと恋に落ち駆け落ち同然で一族を抜け、破門されます。その後、アッソンと結婚しエリンをもうけるもアッソンは流行病で我が子の顔を見ることも叶わず先立ち、彼の遺言によりソヨンは霧の民の知識と技術を活かせるよう獣ノ医術師として闘蛇の世話を任せるようにします。
ちなみに続編である<探究編>にて判明することですが、霧の民から抜け結婚した際の年齢はなんと16歳で、その1年後にエリンを産み、わずか27歳でこの世を去りました。物語では16歳で嫁ぐ女性も多い世界観なのですが、母のあまりの若さにエリンも驚愕していました。その事実を聞かされたエリンはすでに母の歳を超えていて、当時のエリンより少し幼い息子もいるので、尚更驚いたことでしょう。
というか、私自身が読んでいて実際驚きました。エリンの年齢も踏まえて+20αは年上かなと思っていたら、想像以上にかなり若かったので。そして、作中の物静かなソヨンからは想像もつかない情熱的な行動でしたので。王獣編にて、エリンの身の上を聞いたハルミヤが果断な方と称しましたが、まさしくその通りです。娘のエリンが割と遅咲きなことと比較しながらも、一度咲かせた恋にはかなり大胆な行動をとっていましたので惚れた相手に情熱的で行動的なのは遺伝なのかもしれません。その辺りは、刹那編にて参照で。
しかし、狭い村八分により余所者であるソヨンとその娘に対する風当たりは強く、一応彼女の人柄を気に入り良く思ってくれる村人もいたものの、それでも魔術を使うと噂されている謎多き異民族という根付いた偏見や恐怖心はそう簡単には拭いきれないもの。特に頭領は元々偏狭な上に息子を取られた気持ちも相まってソヨン母娘を疎んでいます。幼ながらに聡いエリンもそれを薄々察しており、疎外感に苛まれていました。
母娘2人の生活は苦労が多いながらも幸せな暮らしでしたが、ソヨンが世話をしていた闘蛇の中でも特に戦闘力が高く戦の最前線を担う<牙>を大量死させてしまい、ソヨンが闘蛇の裁きにかけられた母娘の平穏な生活は終わりを告げます。
野生の闘蛇の沼に放り投げされ処刑されたソヨンでしたが、実際は監察官が保身に走ったことで霧の民出身として異端扱いされているソヨンに責任をすべてなすりつける形で刑を執行したとのこと。続編によると死刑に処すのは行き過ぎた行為であり、本来ならば片腕が斬り落とされる処罰を受けると語られています。
ですが、実際にソヨンは闘蛇の大量死に全く無関係ではなかった。
<牙>には<特滋水>という闘蛇を強化させる薬草入りの水を与えるのですが、一方で生殖機能を奪うドーピング剤のようなもの。それはこれから関わる、王獣たちにとっても同じ作用を意図的に含まされているのです。<牙>たちは雌で繁殖期を迎えており、闘蛇に特滋水を与えると卵詰まりを引き起こしてしまい、それが原因で大量死が発生したのが真相です。
世間一般では繁殖期の闘蛇にとって特滋水は毒であること、それ以前に自分たちが育てている闘蛇たちの性別すら掟により知ることすらできず、それこそが霧の民達が隠し通している禁忌であり、一般的には知られていない、知ってはいけない事柄なのです。
霧の民であるソヨンはこの時期の<牙>に特滋水を飲ませてしまうことが死に繋がることを知っていた。毒を飲ませると同義であると知りながら、それを行い理不尽な罰を受け入れた。霧の民を抜けたとはいえ、幼い頃から骨の髄まで叩き込まれた概念はそうそう消えるものではない。特滋水が繁殖期の闘蛇の毒になるひいては特滋水が意図的に繁殖の妨げをしていることはけっして知られてはならないことだから。
霧の民として野生の闘蛇の本来の生態と買われた闘蛇を掟で縛る理由を知るが故に、人によって生態を歪まされ、人に飼われて使われる闘蛇を育てること音無し笛で縛り付けてしまう事に、複雑な心情を抱え沈黙するしかないことに苦しんでいました。
そして例え沈黙を貫いて死ぬことになろうとそれすら受け入れ、自らの命と引き換えに<戒律>を守れるのなら本望とすら思っていた。
「エリン、おかあさんがこれからすることを、けっしてまねしてはいけないよ。おかあさんは、大罪を犯すのだから」
しかし、ソヨンは最期の最後で<掟>を破った。
命の危険も試みず、必死で母を助け出そうとする娘を助けるために。
<霧の民>達にとって人が闘蛇を操る術は最大の禁忌であり、けっして人に見られてはいけない禁術でした。家族を犠牲にしてでも<戒律>を守り通すことを<掟>として教え込まれてきた<霧の民>であるソヨンにとっては究極の選択であり一度はためらったものの、最終的に娘の命を選び禁術である<操者ノ技>を使います。指笛で闘蛇を操りエリンを闘蛇の背に乗せて安全な場所へ連れ出すように命じ、娘の幸福を願った母は悔いなくその身を闘蛇に食われて一生を終えるのです。
余談ですが、エリンを乗せた闘蛇はソヨンと同じく母親で、ソヨンの母を思う気持ちに応えてその役目を請け負った………とその辺想像しています。アニメ版ではエリンを乗せた闘蛇が亡骸となっていたので、なおさらそう思いました。元々死期が近いと悟った母(もしくは祖母)闘蛇がソヨンの母としての気持ちに共鳴して呼応したのかなと……そうだったらロマンがあるなぁと勝手に想像を膨らませております。
エリンにとって、この『獣の奏者』という物語にとって「母の指笛」は幕開けを告げる笛の音であり、物語の最初の分岐点でもあります。母の死後も指笛の描写はことあるごとに母の記憶と共に思い出し、それがエリンが謎に挑むの重要なファクターにもなります。
その後、成長したエリンは霧の民から戒律の話を聞かされた際、ソヨンは大罪を畏れ戒律に縛られたまま命を絶ったのかと思いますが、ソヨン当人からすれば<霧の民>として生まれ育ち<掟>や<戒律>に囚われて生きてきた人生で2回目の反旗を翻す狼煙をあげてのことだった。
作中読んでいて、私はソヨンは悲劇の人だと印象を受けました。
戒律に縛られ第一に優先して守る一族に鬱屈を抱え抜け出し、実母からは失望され絶縁、追放されてでも選び結ばれた相手とはほんの僅かな間しか過ごせず、慣れない土地で人々からは白い目で見られ、女手1人で娘を育てながら獣ノ医術師として闘蛇と戒律との間で板挟みに苛まれた挙句、一族の戒律からは離れられぬまま、最期には<掟>によって処刑される。
人生を戒律や掟に縛られ霧の民を抜けた後ですら、それに縛られ死を選ばざるを得なかったソヨン。娘を守るために霧の民の最大の掟を破ったことで、ソヨンは最後の最期に<戒律>という名の呪縛から解き放たれ、死してなお刹那とはいえようやく自由を手にした。
<ソヨン>という一人の人間として<母>として<掟>に逆らってまで愛娘を救った瞬間、ソヨンは本当の意味で解放されたのだと私は思いました。
ソヨンは最後の瞬間以外は人生を戒律に縛られ翻弄された悲劇の人ではあった………が、エリンやアッソンと過ごした日々は心の底から幸せだったのは確かで、それだけは何ものにも掟にも戒律にも縛られることのないソヨンの心そのものだった。だからこそ、ソヨンは究極の選択を迫られた瞬間に娘を選ぶ事ができたのだ。
ソヨンなくしてもとより「母の指笛」なくして『獣の奏者』は語れない。それほどまでに、ソヨンと母の指笛はエリンにとって、この物語にとって重要な存在であるのです。
9月20日は空の日ですが、秋の日の空を連想すると『獣の奏者』が思い浮かびます。
というものの、闘蛇編・王獣編の続編である完結編にて、空を見た子どもが
「同じ晴れた空でも夏の空や秋の空とは色が違う」とポツッと語る場面があり、それがなんだか印象的で、夏が過ぎてどこか寂しくも落ち着いて見える秋空を見るたびに本作を連想してしまうのです。
今回は闘蛇編とエリン周辺のについてや舞台となる国の世界観を長々と語っていきましたが、一旦区切りましょう。
次回は王獣編を中心に、もう1人の主人公でありエリンと強い繋がりを持つことになるイアルと彼の視点で見る為政者たち、エリンと獣との避けて通れぬ大きな溝としっぺ返しを語っていきたいと思います。
それでは失礼します。