「人生には、目的などない」
いきなりの、こんな見出しに面食らいながら、澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」を読んでみた。
澁澤龍彦といえば、サド裁判である。
サド裁判とは、1959 年に澁澤龍彦が翻訳を手掛け、現代思潮社より出版された、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』の性描写が過激すぎることで、わいせつ物頒布等の罪に問われたものである。
判決が出たのが、1969 年のことだから、本書(快楽主義の哲学)は、その間に刊行されたことになる(1965 年:光文社カッパ・ノベルス)。
三島由紀夫は、次のような賛辞を本書に寄稿している。
「サド裁判で勇名をはせた澁澤氏というと、どんな怪物かと思うだろうが、これが見た目には優型の小柄の白皙(はくせき)の青年で、どこかに美少年の面影をとどめる楚々たる風情。しかし、見かけにだまされてはいけない。胆、かめのごとく、パイプを吹かして裁判所に悠々と遅刻してあらわれるのみか、一度などは、無断欠席でその日の裁判を流してしまった。酒量は無尽蔵、酔えば、支那服の裾をからげて踊り、(中略)日本語、英語、フランス語、ドイツ語、どんな歌詞でもみな諳(そら)で覚えているという怖るべき頭脳。珍書奇書に埋もれた書斎で、殺人を論じ、頽廃(たいはい)美術を論じ、その博識には手がつけられないが、友情に厚いことでも、愛妻家であることでも有名。この人がいなかったら、日本はどんなに淋しい国になるだろう。」
では、三島にここまで言わせる、澁澤の凄さとは何なのか?
河出文庫で読める「幻想の肖像」や、先に挙げた「悪徳の栄え」をはじめとするいくつかの訳本しか知らない私にとっては、たぶん本書でその答えが見つかるのだろうと思った(三島が言っているのだから)。
たしかに、本書でものっけから、その博覧強記ぶりが冴えわたる。
しかも、誰にでもわかりやすく、読みやすい。
そして時折、「幸福とはたんに苦痛の欠如です」というような、ハッとさせられるフレーズが続く。
つまり、とても面白い本である。
「幸福」に対して、本書の主題である「快楽」についてはどう認識しているのか?
澁澤によれば、「快楽とは瞬間的なものであり、幸福とは持続的なもの」だという。
これは、わかったようなわからないような話でもあるが、私の個人的な印象では、幸福とは、(お金のように)「いつまでも取っておきたいもの」であるのに対し、快楽とは、(遊びのように)「その時々に没頭できるもの」というイメージを持ちながら読み進めた。
実際、本書の最後のほうでは、「労働を遊ぶこと」という見出しが立つ。
働かないで楽に暮らしていければ、これにこしたことはない。
誰だって、生活のために、とりわけ自分の好きでもない職業について、いやいやながら毎日あくせく仕事に追いまくられているのは、つらいことです。
(中略)
現実の社会では、なかなか個人の自由意志で仕事を選ぶということはむずかしいので、どうしても、ここに労働嫌悪の風潮が起こってきます。当然のことです。
そうだとしても、ほとんどの勤労者はまた、疎外された労働の中にささやかな喜びを見つける知恵も持っていると思う。
このことは澁澤も否定していない。けれど、それすら「快楽主義的ではない」と断ずる。
しかし、こうした人たちの仕事のなかの快楽は、報酬の期待とか、地位の安定とか、自分の分担する機能を無事に果たしていることに対する満足とかであって、いずれの場合も、本能的な欲望の充足とはまったく無関係です。
澁澤によれば、生活の手段のための労働、いやいやながらする労働は、人間性を疎外するだけのものだ、ということになる。
そこで、「労働」の対極ともいえる「遊び」が登場する。
どうすれば、「労働」を「遊び」に近づけることができるか?
この問題に、現代人は真剣に向き合わなければなならないと説く。
労働と遊びの区別をなくし、働くことがそのまま欲望を解放すると同時に、欲望を解放するための手段が働くことでもあるような、そんな「矛盾の統一」を目指すべきなのだ、とまとめている。
たしかに、「労働を遊びに」という著者の主張は汲むべきところも大きいと思う。
しかし、現実は、著者の理想とは、ほど遠いところにまで来ている。
著者は、単純労働や、単調な事務仕事からは「遊び」は見出しにくく、芸術家や職人等の世界でこそ見出しやすいと言うが、それはその通りだとしても、本書が前提とした時代と現在とでは、社会的にも経済的にも大きな隔たりがある。
ただし、今後のついては、まさに澁澤の言う通り「労働とは遊ぶこと」を身を持って経験さざるを得ない時代になるのかもしれない。
AIなるものによって、今後の労働環境がますます混沌としてくるのは目に見えている。
そこでは、「遊べないような労働」というものは、ことごとく淘汰されていく可能性すらある。
すると、澁澤が理想とした「快楽主義的な労働」なるものは、労働者が積極的に獲りに行くものなどではなく、否応なしに時代から、「強制」を余儀なくされつつあるものとみることもできる。
これからの時代は、遊びを見出せる労働にしか、人間に入り込む余地などなくなりつつあるのではないか?という、「消極的快楽主義の労働観」を描かずにはいられない。
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◆本日のひらめき 「『遊べ』と強制されていることすら気づかなくなる遊び場をハトなりに考える」
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