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おやじの朝読書

本を読むことくらいしか趣味のない平凡なアラフォーおやじ(鳩サブロー)が毎朝一時間の読書で毎日1冊、たまには怠けつつ一年後300冊の読書から300個の“ひらめき”を得て、自分自身にどんな変化を感じるか?ぽっぽと記録してまいります。

我が家の積読部屋で行方知れずの数々の中で、売りに出した記憶もないのにどうしても見当たらない本の一つが、筒井康隆の「文学部唯野教授」である。

 

二十代の頃に読んだそれとはまるで別物の軽装、中身はおんなじの岩波文庫版が、昨晩ようやくAmazonから宅着した。

 

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虚構を超えた虚構ともいうべき「文学部唯野教授」は、やはり面白かった。

 

文学論をそのまま小説の中に放り込んだこの作品は、おもにミステリー畑の作家には刺激的だったようで、「メタミステリー」とも呼ぶべき領域の作品に少なくはない影響を与えてきたものといわれている。


たとえば、それは、鯨統一郎『ミステリアス学園』であったり、法月綸太郎作品であったり、という具合である。


実際、『ミステリアス学園』は、推理小説を背景としつつも、その内容は「ミステリー史」あるいは「ミステリー業界史」の入門書といった趣が強い。


形式上は、「唯野教授」とそっくりなのである。


また、法月綸太郎は『再び赤い悪夢』の執筆の動機が、「唯野教授」から受けたインスピレーションだとの趣旨の話をどこかで聴いた記憶があるが、無類のミステリー愛好家である私としては、こうした試みは歓迎すべきだと思っている。

 

 

でもなあ、やはり筒井にはかなわないんじゃないかなあという感じ。


他にもいろいろ『唯野』を模した作品をたまに見かけるが、なんてゆうかこう・・・、ただ単に小説の中に入れ子構造のように何かの入門講義にを無理やり組み込んだだけのものだったする。


『唯野』の場合、形式的には同種の入れ子構造なんだけど、その「講義部分」のクオリティーがメチャクチャ高く、それでいて物語の展開も絶妙、つまり、小説の部分も優れている。

 

 

つまり実体が伴っている。

 

 

つまりつまりモノスゲーのである。

 


つまりつまりつまり、暇だから小説でも読んでみるかの気軽さで、小難しい文学理論をわかったつもりになれる程度のジコマンを助長してくれるのである。

 

 

誤解なきよう添えとくと、この作品に出てくる文学理論のところは私のようなド素人にとってはけってして分かり易いものではない。

 

分かり易いのではなくて、『わかったつもり』のいい気分にしてくれるのである。これがテクニックというものなのか。

 

とりあえず、「唯野教授」を一読しておけば、そこいらのインテリに話を合わせられるんじゃないかな程度の知識・・・ではなくて、「勘違い」を.手に入れることが出来る。


だからと言ってどうこうなるもんでもないが、ある種のジコマン、知識欲みたいなもんを満たす程度の材料としては十分すぎるものがある。


それくらい、「講義」の部分はよく出来ており、鳩みたいに真剣に文学やる必要のない者にとっては、教養(といより趣味)としての文芸批評史なら「この本」だけで十分じゃないかと思う。


もちろん、そんなんじゃ納得できないわ、ちゃんと文学したいわ、中途半端なの気持悪いわ、とゆう向きには、本書の「ネタ本」とも言われている、テリー・イーグルトンの『文学とは何か――現代批評理論への招待 』(岩波文庫)で補充しておくとよいのだが、そんな暇な人なかなかいないかもしれない。


あくまで、「唯野教授」の講義部分を読んで意味不明、消化不良に陥ってしまったことに忸怩たる思いのある方、何事も中途半端は大嫌い!という方だけチャレンジして欲しい(などといっといて、鳩は読んでいないという無責任さ)。

 


そんな「文学部唯野教授」。これを単なるパロディーとか、スラップスティックだとかで片付けるのは簡単であるが、読み進めれば進めるほどじわじわと不思議な感覚がこみ上げてくるだろう。


その不思議さが何なのか?おそらくそれは、主人公・唯野仁の真意というか、行動原理がなかなか明らかにならないところに一因あり。

 

 

なぜ、大学に隠れて小説を書いているのか?大学の権力構図の中で、他の教授連中の嫉妬による誹謗中傷、個人攻撃から身を守るためだとしても、なぜそこまでして小説を書き続ける必要があるのか?


つまり、あえて危険を冒してまで、二足のわらじに徹する必要性が何処にあるのか?という問題が終盤に至るまでまったく明らかにされないのである。

 


唯野教授は、「手段」として、大学に隠れて短編小説を書き続けた。

 

 

では、その「目的」は?


僅かながら、第6講「受容理論」のくだりで、ようやく『新たな文学理論を確立したい』という唯野のセリフが登場する。


「今の日本じゃ大学を離れたところで理論の確立はできない」

「どんな立派な文学理論を樹立しようが、それをやったのが人気作家であって御覧なさい・・・」


「その文学理論は社会的に抹殺される」


「今ぼくが短編を書いているのはいわば文学理論の実践または試行、またはフィールドワークとしてやってるわけでさ。」( P221)

 

 

で、最終の第9講「ポスト構造主義」の講義が終わる間近になって、


「今までの文学理論というのは歴史、宗教、哲学、美学、言語学、民俗学、政治学、心理学といった、あらゆる分野から借りてきた借り物の理論が多かったわけだけど」


「虚構の、虚構による、虚構のためだけの理論というものがあり得るのかあり得ないのか」


「むしろ虚構の中から生まれた、純粋の虚構だけによる理論でもって、さっき言ったようなあらゆる分野の理論を逆に創造してしまうことさえ可能な」


「そんな虚構理論は可能か。」(p363)

 

~といった『目的』について語っている。


もちろん、それを語らせているのは著者である筒井康隆なのであるから、唯野仁=筒井の「理想」といってもよいかもしれない。

 


ちなみに、本書の初版刊行より遡ること10年ほど前の名作に『大いなる助走』というのがあるが、こちらのほうは文壇を舞台にしたスラップスティックであり、メタフィクションであるのだが、ここにも「権威」に対する筒井独特の茶化し、アイロニーが見て取れる。


文壇という場所を「大学」という場所にズラしたのが『唯野教授』ということであり、本書を『大いなる助走』の続編(to be continued)と見て取るることも出来る。

 

 

と、ここまで書いてきたといころで、鳩は何が言いたかったのかとようやく思い出す。

 

それというのは、そろそろ、『唯野』のto be continuedを、筒井以外の「誰かさん」がやってくれやしまいかと、書けば一行で終わる話を延々と続けてしまっただけの話なのである。

 

 

 

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◆本日のひらめき 「私の仕事=鳩の畑で唯野式メタフィクションを演じてみる」

 

 

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