アジアという自然的世界の遺制
ムラ社会や部族社会は、原始的であり、つまり自然なものである。そこには、理屈や「法の支配」や「公権力の命令」などの後発的なものはない。
むしろ欧米の「一神教=命令預言」に根ざした公共社会観よりも、情緒や地縁血縁がリアルに息づいている社会の方が自然であろう。そこでは直感的な生活があれば成り立つのであり、学習という後発的なものは必要ない。
アジアでは一神教=イスラム教は浸透したが、それは一元的な世俗権力にはなれず、またイスラム圏にも部族制が色濃く残っているようである。いまだに身分証明書に部族名も記入されている地域もある。アルカイダは反米を掲げることで一つの敵に対する求心力を獲得し、広範な地域をまたがる組織になったが、アルカイダが弱体すると、イスラム内部の抗争も激しくなっているし、多民族国家内部での騒乱も激しくなっている。
*アフリカには現地系とアラブ系の住民対立、東南アジアには現地系と華僑の住民対立がある
*イスラム原理主義組織ですら、地縁に引きずられて分裂していく
そして日本もまたアジアなのだ。「血の通っていない冷たい法なんて・・・」と言い、人情や情緒に溺れる。そうすると「ノウハウよりノウフーさ!」となり結局は縁故社会を目指すことになる。このアジア的世界で繰り広げられる原始的騒動にはまた独特なものがある。
・給料安いバイトに給食米や塩50キロあげた 調理員停職(2014/02/19朝日新聞)
*給食調理員は「人情」で許可したのかもしれないが、それは「自分の財産」ではなく、「公共の財産」である。公共概念が欠落し、人情ばかりが突出するとこうなる。そのくせ「自分の財産」ならビタ一文出したくはないのだろう。
ムラ社会より厄介な氏族抗争
情緒的集団としては氏族もあるが、その一例が中国でのムラ抗争から見えてくる。
■中国のムラで死傷者を出す抗争
最近中国で5万人の新参(といっても100年前に来た)劉氏と、1万の土着の廖氏が祭りの騒動を契機に激突し、銃や土砲(?)まで繰り出して死傷者を出す抗争になっている。廖氏は地元警察には劉氏の息がかかっているとして、戦闘意欲は盛んである。
・村同士の抗争勃発、劉氏と廖氏の争い―広西チワン族自治区(2014/02/11RecordChina)
*中国共産党の冷徹な全体主義的統制は広大な中国に点在するムラ内部までは及ばないということである。それは実は、歴史上の中国王朝が役人を派遣してもムラを完全に支配できなかったこととも符合する。
中国の旧正月で出稼ぎ青年達がムラに戻り、祭りの爆竹などが鳴らされると熱くなってゆき・・・。あとは情緒にまかせて爆発する。死者が出る祭りのようなものか。こういう結束感は原始的本能のように思える。
もし「法の支配」の観念が欠如している場合、全体という「公共観」が欠落している場合、そして情緒的な血縁地縁だけで世界を構築したい場合、待っているのは部族抗争である。それは情緒的な結束が燃え上がる契機でもある。
■不良集団・暴走族の結束
ちょうど日本の学校でA校不良とB校不良が燃え上がって抗争するのに似ている。こうした行動は、誰かに強制されたものではなく、学校で指導されたものでもなく、自然・本能的なものである。あなたは理屈なきに共感でき、戦うことができる。しかしこれは原始的で不毛な爆発であり、21世紀社会のモデルにはならないだろう。「情緒社会」が行き着くところはこうした原始的社会であり、情緒集団同士の終わりなき抗争である。
・勝つためなら何だってするカラーギャング 抗争に拳銃持参も(2011/04/11毎日新聞)
*この埼玉の若者の暴走族抗争では、チームカラーで集団を差別化している。仲間のことを「ファミリー」と呼び、強い連帯感があるとされる。これも情緒的集団である。
情緒以外でつながる方法=客観的ルール
情緒だけでつながることができるのは、ムラや部族くらいである。それ以外の情緒による大きな結束は、民族主義的プロパガンダや戦争プロパガンダくらいである。
*アメリカではハリウッドや広告業を駆使して日米戦争プロパガンダを巧妙に作り上げた。
*ヒトラーは第一次大戦におけるイギリスの戦争プロパガンダを秀逸だと絶賛し、帝政ドイツではそれが欠落していたとしている。
*イギリスのコモンロー大家ブラックストンは、友情や身内愛などの情緒に基づく関係を否定しているわけではない。これを自然法とするものの、大きな共同体には「市民法」が必要となるとする。法的には「市民法=民法」なのである。だが民法原理を語る左翼や右翼は少ない。
こうした情緒的プロパガンダは、無批判・盲目的な呪術になってしまいかねない。
■価値観の相対化とこれからの日本
それゆえ、価値観相対化の時代においては、情緒が通じない集団や集団とは無縁な自由な個人がいる社会を想定しなければならない。「絆」という言葉を300回拡声器で鳴らしても、一億は情緒的身内にはならない。また一億を無批判で盲目的な集団にしてもならない。
日本は、戦後経済発展を経て財閥家や大地主もなくなり、ある意味「対等社会」・全員受験・全員サラリーマン社会になってきている。華族も消滅し、階級がなくなっていった。
*縁故と言いながら、明治維新が作り出した官位世襲禁止は絶対的で、社会が縁故であっても、受験は機会平等でなくてはならないという観念が日本人は強いようだ。
それゆえ誰もが元総理の菅直人をクソミソに批判できる。東大出身の舛添も批判できる。歴史に名高い支配層であった藤原氏の末裔や細川家の偉いさんに対しては萎縮して文句が言えないということはない。
*江戸時代の幕藩体制では、部落・集落・集団の長をそれぞれ序列にあてこんで統制しており、個人を管理統制していたわけではない。それゆえ「長」には自らの集団内について多大な生殺与奪権があった。
*近代が個人=納税単位・徴兵単位として個人主義を持ち込むと、江戸時代的集団の寄せ集めでは機能しなくなった。
*国民全員を軍人/軍属のように動かしたのが国家総動員であり、それもムラ社会の破壊ではあった。「貴様のような奴でも天皇陛下の赤子である!」という軍隊の言葉は、子分の生殺与奪権を持つ親分を否定している。個人が親分抜きで直接国家につながることが観念されている。
*明治憲法には国民投票に絶対的な価値はなかった。明治憲法上は国民ではなく「臣民」である。だが昭和維新によるクーデター騒ぎなどが相次ぎ、勝ち組・負け組みなどを排した「国民」が神聖な言葉となっていった。それは機能不全となった明治システムを軍国主義で強力に改造してしまうというものであった。
そうなれば、やはり、日本という文脈においても「客観的ルール」を「自分達が自分達のために自分達の手で」作り、これを守り、不備があれば是正するという行為を繰り返す方法がふさわしい。多数決が絶対的正しさではなく一過性の所産である以上、常に流動的に改築していく必要があろう。そうではなく原則もないまま空気で右往左往すれば支離滅裂になっていく。
客観的ルール ← → 情緒的裁量・口利き
そんときはそんとき臨機応変
空気で動く
それは公権力の指導と官憲の命令という意味での官憲法治主義ではない。
つまり、日本はまさに今から「法の支配(ルール型)」を植え込んでいく必要があるのではないか。ハーケンクロイツ!幻想のアーリア人!のようなもっともらしい呪術に酔って盲目的に流されていくよりも、仮説・実証・検証・修正というサイクルを常に回してゆける社会になったほうがいい。情緒は私的生活にとどめ、その枠外では参加型・ルール型の仕組みが必要ではないか。