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日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

ドグマと空気


■公共概念の欠如


日本人はイザという時「絆」としか言えないようだ。


もちろん在日に対して「絆」はないと思っている人がヘイトスピーチで「死ね」「殺せ」と叫んでいるのだろうし、嫌中・嫌韓の人は中国人や韓国人に対して「絆」は感じない。不景気でブラジル人労働者を追い返した時も「絆」は感じない。正規社員と非正規社員に大きな身分差ができても「絆」は感じない。取引先からの差し入れは正規社員だけで分ける。また自分の悪口を言う人や係争中の相手、価値観が違う相手、別れた亭主に「絆」は感じないはずである。また隣の部屋の音がうるさいから殺したという事件では隣人に対する「絆」などは見当たらない。美しき情緒的「絆」はこんなにも了見の狭いものだ。「絆でまとまろう!おー!」というのがいかに無意味であるかを物語っている。また「絆」だけで1億がまとまれるわけもない。1億が「愛の身内家族」になれるわけではない。
ピアノ騒音殺人事件(wikipedia)
隣人にご用心!騒音が死を招く…(allabout)
*秩序が崩壊する最悪の場合、関東大震災のように有事に何らかの殺害やテロが勃発する可能性もある。


そこには「公共」の欠落がある。


私は大阪にいた時、誰かが急病になった時「病院のベッドは大丈夫や。市会議員のつてがあるから。」という人の言葉を聞いて愕然としたことがある。「愛する身内」のために何でもしたいの山々だが、市会議員用に確保してあるベッドは身内用だということだ。市会議員は自らの自治体の病院ベッド問題を是正するためでなく、身内に利権を配るためにあるのか?さあ!ここでもお前の大好物の「絆」が実現されたぞ!喜べ!
*昔報道で飛行機事故で多数死者が出た時「日本人乗客はいませんでした。良かったですね」というアナウンサーがいた。これが我々の真の姿である。
*政治家は献金してくれた人のために利権をあてがうという「絆」を実践しているのである。
*役人は同期の仲間のことを思って「天下り先」を確保する。これは強力な仲間に対する「絆」の所産だ。


戦時中は「公共」はあった。「天皇!皇国!国体!」と言えば良かったので簡明であった。だからこそ、そういった一体感を理想視し、過去への憧憬を持つ人が今でもいるわけだ。もっと昔に遡れば京の都と律令があり、「上り/下り」という秩序が公けであった。


戦後は結局「公共」をうまく作れなかったのではないか?


そして政府も何もかも「空気」で右往左往するようである。原理原則など状況次第でどうにも変わってしまうようだ。十字架にかけられても信仰を捨てないというほどの信念はない。国家の信念等を反映する憲法についても、歴史的な経緯がある。また、もし現行憲法が借り物であって無効というなら、現行憲法下に成立する国家権力や法規のすべてが無効となる。そうなれば現在の秩序も架空のものにすぎない。そこまで何もなくなると、「身内の保全」「己がかわいい」「情緒で信じられる仲間」が最大の信念なのかもしれない。
*昨今のタカ派は「天皇絶対化」もできないので「文化伝統絶対!」と言うが、文化は流動的で曖昧でとらえどころがない。文化には姨捨山や人身御供などの悪い風習も含まれている。また定義が難しいものなので「これが日本文化だ」「その定義を決定するのは俺だあ!」ということになってしまう。しかし「ニホン」と「ニッポン」というくらい一つに統一することは困難なはずである。
*その点で、タカ派の唱える国家一丸はモンスター・ペアレンツや「我が子を学芸会の主役に」というエゴイ
ストの親に対してはまったく力不足となる。「日本人よ団結せよ」と言う前にてめえの女房に「俺は正しい俺
と団結せよ」と言うべきであろう。離婚も多い昨今ではあるが。
*「空気」がおかしくなったり、制御できなくなったりすると、無政府状態・アナーキーな混乱に陥るかもし
れない。


欧米の公共基盤は、伊藤博文が見たところではキリスト教であったようだ。それゆえ彼は『大日本帝国憲法』構築において「日本に宗教はない、だから皇室あるのみ」とした。
*伊藤博文はドイツの憲法学者から仏教を国教とするよう薦められたが、そうはしなかった。
*というわけで「国家神道」というものも伊藤博文にはなかった。それは米国が造った概念である。近代以降、日本の神主が政治力を持ったこともない。

伊藤博文『枢密院会議筆記』(忠臣蔵)


キリシタンの殉教/ドグマに支配される欧米


日本は近世にキリシタンに棄教させようとして苦労したことがある。


■信仰に命を捧げるキリシタン

「棄教すれば模範生として褒美をやる。安楽に過ごせる。これ以上拷問に苦しみたくないだろう?」と棄教してくれるよう頼んだこともあったという。担当者は必ずしも拷問するのが好きでやっているわけではない。しかしそれでも棄教しない者はいた。殺されても棄教しない者がいたのである。
浦上四番崩れ-明治の初めにもあったキリシタン迫害

これは一体何だろう?


くら寿司の研修を担当していたアイウィルは「人権はペスト菌だ!」と信念を述べたのに、すぐに取り下げてしまった。人材を指導する立場として本当に信念から信じていたのなら、例え現在の世がそうなっていなくても、例え非難を浴びても、例えこの世でそう信じるのが少数で孤立無援になっても、例え拷問を受けて殺される羽目になっても「人権はペスト菌だ。俺達はそう信じている」と言えばいい。ガリレオは異端審問にかけられても「それでも地球は動いている」と言ったそうだが、アイウィルは「人権はペスト菌だ」ということを撤回したのと同じヘボい状態になってしまった。


それは到底信条や信念と言えるものではなく、上着のようにいつでも取り換えられるものだ。要するに方便言っているだけで、状況を見てころころ立場を変える。身の保全に毛が生えただけのようなものだ。しかしアイウィルのような意気地のなさは、日本において不思議はない。死をもって貫くほどの信念などない。

*三島由紀夫は、『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の著者が戦に出ることもなく畳の上で往生を遂げたことを指摘している。


だから、キリシタンのような頑強さは、つまりドグマがあることを意味している。捉われているのだ。


命令預言と模範預言


「東洋と西洋」という比較文明論の先駆けのようなマックス・ヴェーバーは、東洋=「模範預言」・西洋=命令預言」という風に捉えたようである。

マックス・ヴェーバー(wikipedia)


■神の命令と契約

そういえば、旧約聖書に出てくる唯一神は、極めて無慈悲で命令的で厳格な神である。モーゼですら結局は神の怒りを買って約束の地=カナンに入ることはできなかった。「あなた○○しなければならない」「あなたは○○してはならない」という命令は、「何で?」を押しつぶす「命令預言」だ。ユダヤ人の苦境は、唯一神との約束に背いた罰という形に解釈される。


■呪文と霊的世界

他方、道教・仏教そして日本の神道にはそういった側面はない。


とりわけ神道を考えた時、祝詞はもともとは霊的な呪文のようなものだった。また般若心経には「唱えれば心が消え魂が静まる」ということで、精神安定剤的なもので一般の信者にとってお経の哲学的意味の理解は二の次である。お札お守りに文字は書かれているが、それに理知的な意味を求めているわけではない。こうした文のような言葉・言霊という思考が日本の歴史にはあり、あいだみつおの標語を壁にべたべた貼り付けるような態度に帰結してくる。それは「あのねえ・・世の中ってのはねえ・・」というもやもやと断定してくるもので理知的なものではない。「論語読みの論語知らず」という表現もあるほど、言葉のかっこ良さに溺れ、呪文・呪術的なアフォリズム顕著で、理知的というよりは感覚的である。



マックス・ヴェーバーは、近代以降に西洋が東洋に勝る結果となった理由として東洋を「呪術の園」として捉えたようである。スピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ魔宮の伝説』では、悪の呪術に捉われたインド人を白人が解放するという内容になっている。そこには白人によるアジア植民地化という罪悪感は皆無である。日本を開国させたペリー提督も「未開人文明の光をもたらす」という確信を持っていたとされる。まあ、それは一種のアジア蔑視なのである。

*右図はインドの殺戮と破壊の女神カーリー





そこで乱暴に対比すれば


   一神教               仏教等アジア思想
     命令預言         ← →     模範預言

   神の絶対性・創造主     ← →    誰もが仏様になれる        
   神の計画に近づく            先人の言葉・聖人を見習う
  ドグマに溺れる(方式に拘泥)    アフォリズムに溺れる(名言集大好き)

論理と普遍性(適用性)    ← →  ケース・バイ・ケース・情緒や空気(一過性)


       自殺も犯罪           

   (神の計画を勝手に変更)       死刑執行は遺族の復讐心に任せよう


■アジアの多元性と分立
本来、普遍性や一元性に固執しないアジアを物語るのは多様性だとは思うが、日本の場合は孤立した島国ゆえ
に多様性のない特殊なアジアとなった。というかアジア全体は多元的にバラバラのようである。インド中国は異質で混じりあわずプライドが高い。東南アジアはまるでモザイクのように過去の因縁もある。中央アジアまでいけば更にバラバラだ。アジアに拡散した一神教イスラム教も一つの強力な政体を維持できていない。族制や地縁が色濃く残る地域になっている。パキスタンのタリバンも一元的組織ではない。こういう分立がある限り誰もアジアをまとめられるリーダーにはなれないだろう。
中印国境の両軍「にらみ合い」、10日が経過=中国報道(2013/4/25サーチナ)
*大国にはさまれて北朝鮮やロシアというかつて市民を殺した現実の危険に直面していながら、現実逃避し、ひたすら日本を叩くことで民族主義を満足させようとする韓国も特殊なアジアであろう。


■欧米の近代のドグマ
西洋はフランク帝国以降は「神の支配」という建前上の一元性があり、神聖ローマ皇帝とローマ教皇を頂点と
した一つのカソリック・キリスト教圏があった。西洋の王侯はすべからくこうした権威秩序の影響を受けていた。ただし、その実態は複雑に分立しており戦争が絶えなかった。

近代になると欧米は「神の支配」から「法の支配」へ転換した。「神の前の平等」「法の前の平等」となった。今度は「法の支配」というドグマになったのである。ただし、それは近代国家の枠内での話しであった。
*フランク帝国のザクセン改宗が虐殺的なものになったように、一元化はかなり過酷なものであった。それはイスラム圏でキリスト教徒やユダヤ教徒が特別税を徴収されながらも「経典の民」ということで許容された姿勢とは異なる。

*ただし近代西欧はさらに国家間の大戦争をもたらす世界になっていく。
*米国ではビン・ラディン殺害時に「応戦してきたか?それとも丸腰だったか?」ということが問題視された
。それは「法の支配」のドグマのせいであろう。


また、ドグマ=教条主義「マルクス主義」にも受け継がれている。それは頑固で絶対的で異端を許さない一神教に良く似ている。


欧米のドグマ「大きな集団」では極めて有効となる。


というのは欧米個人主義という柱がある以上、下手をすればバラバラになってしまう。ドグマ的なマニュアル信奉トップダウンによる標準化「大きな集団」が対外的には強い集団となっている。


日米戦争の米軍はゼロ戦の弱点を研究して即座に戦術に生かす等、集団学習能力の高さを発揮していた。また米国が自らの国益を守る上で、米国に個人主義があるからと言って「アメリカの正義と理想」を台無しにするような動きはない。英国ではコモンウェルス(共通の福利)と言い、価値共同体を作る。つまり、戦争のような事態となった時、英米は決して弱くはなかった。
*日米戦争中に米海軍では現在のイージス艦につながる着想を得てどんどん発展させていった。それは人間ミサイルとも言えた神風特攻隊の攻撃への対処から培われたともされている。というわけで対空ミサイル機能が発達している。米国は戦争しながらどんどん集団・インフラをアップグレードしているのである。


ユダヤ教とプロテスタントの書物主義


ドグマと言っても、それが伝承等雰囲気で伝わるものなら移ろいでしまう。

やはりそこには何かある。それは書物主義である。


とりわけ、ユダヤ教とプロテスタントは「書物の宗教」である。仏教にも経典はあるが、信徒が読解すること
は絶対視されなかったので質が異なると思う。


■ユダヤ人の書物主義
古代ヘブライ人の信仰の拠り所は、神殿であり、民族団結の拠り所はであった。だがアッシリア捕囚(イス
ラエル十支族消滅)、新バビロニア捕囚そしてセレウコス朝シリアの支配や国際化でユダヤ人のアイデンティティーは度々危機に見舞われた。神殿の祭司長はセレウコス朝が指名していた。またイエスの時代に登場するヘロデ王朝はローマに支援された成り上がり者であり、古えの正統性は怪しかった。そしてローマ帝国がエルサレム神殿を破壊すると(紀元70年)、神殿も王族も消滅し離散(ディアスポラ)となる。


それゆえ、各地に離散するユダヤ人がアイデンティティーを保つために必要となったのが聖典書物であった。


流れ着いた町に神殿やラビがちゃんといるかもわからないからである。そのためには、文字が読める必要があった。正確にはユダヤ教「ヤムニア会議」(紀元90年代)においてヘブライ語聖典のみを正統とすることで書物宗教としてのユダヤ教が始まったと言えるかもしれない。
*ヘレニズムを経て様々な旧約聖書等の翻訳版があり、原典も様々で混乱していた。また古代ヘブライ語自体が捕囚によってアラム語化していた。特にキリスト教にとって預言の成就として重要な『イザヤ書』における「メシアは処女から生まれる」という表現は、ユダヤ教正統版では「乙女(almah)から生まれる」が正しい表現とされ(死海文書のイザヤ書もそうなっていた)、キリスト教とユダヤ教は分離していくことになる。

ヤムニア会議(wikipedia)


この結果、ユダヤ人の成人男性識字率は100%と高く、中世欧州では脅威的な数値となった。


王権が伸長し、行政が複雑化・高度化・中央集権化していくと文官が必要となるが、ユダヤ人が欧州で行政の末端あるいは財務や徴税などを担当するようになる理由には、こうした高い識字率にあったと思われる。
*さらに、イスラム圏に生活していたユダヤ商人にインド・アラビア数字の会計があったことは、商業における強みとなったと思われる。ラテン数字で会計は非常にやっかいなはずである。さらにローマ世界で日記帳に過ぎなかった財務記録に複式簿記を持ち込んだのは革命的であった。

*源頼朝が鎌倉に基盤を置いたとき、敵からの寝返り者であった梶原景時を侍所所司、厩別当としたのは、彼の報連相能力の高さにあったようである。数千騎を動かせる豪族ですら、文書行政には精通した者は少なく、義経などは「え?戦ですか?勝ちましたよ!!ほめてください!」みたいなレベルだったかもしれない。
*豊臣政権における石田光成はネガティブに描かれるが、数十万もの軍勢の管理やロジスティクス、太閤検地のような煩雑な行政事務を統合的に推進した能力の高さからすれば、凄腕の文官であったと思われる。


ただ現在のユダヤ教の観点からは、その信仰はラビの指導による戒律の宗教であり、書物主義ではないとされる。むしろ書物主義で極端なのは「聖書のみに頼る」という姿勢のキリスト教プロテスタントであろうか。


■プロテスタントの書物主義

プロテスタントが信仰のよりどころにしたのは、キリストの正統な弟子のまた弟子というローマ教皇でも、教会でも聖人でもなく、聖書であった。


すでにその時点でドグマチックである。


ルター等の宗教改革者に言わせれば、当時のカソリック教会のあり方は聖書に書かれている道に反するものであったようだ。聖書でイエスが批判しているエルサレム神殿の司祭貴族のようであったかもしれない。そしてジェノサイドのような血で血を洗う宗教紛争の後で欧州で、プロテスタント国家(英蘭独など)が確立された。そして司法や行政からのラテン語の排除・国語の勃興が近代欧州で垣間見られた。さらに聖書を読むことを目的に教会で「日曜学校」ができ、それが「グラマースクール(高校に相当)」へと発展していく。また米ハーバード大などの古い大学は、元々はコミュニティーのリーダーたる牧師養成を目的としていた。つまり根っこにはプロテスタント主義がある。
*当初はラテン語の聖書を現地語に翻訳することは死罪に相当した
*西欧の「学区」は日本の学区とは違い、教会の「教区」が起源になっているものも多い。
*アメリカのリーダー論は信徒の代表たる牧師的リーダーであって武田信玄的リーダーではない。
*オバマ大統領は演説がうまいが一時期宗教にかぶれていた。オバマ大統領の演説は、やはり牧師が信徒に語
りかけるスタイルなのである。


さらに「欧米個人主義」も、聖書を頼りに神と向き合うというプロテスタント主義の影響がある。「信教の自由」「思想良心の自由」は異端審問やカトリック派による虐殺の反作用から生まれたものだえる。「国教の禁止」も、国家権力と結びついてプロテスタントを弾圧したカソリック教会に対する嫌悪から生じている。キリシタン禁止以外では日本ではこうした思想闘争のようなものは近代以前にはなかった。


プロテスタントには様々な宗派があり、カトリック的なものを否定している以外はそれほど似通ってはいない予定説という教義では、生まれた時にすでに天国か地獄か決まっているので、どんなに善行を積もうが関係ない。「神の意思がわかった!」と言える人間などいないという信念がそこにある。そうすると人生は「最後の審判」を待つ受刑期間のようなもので、どうせそうなら「合理的」に生きるという方向も出てくる。功徳を積むという仏教的な発想ではないのだ。

・カルヴァンの予定説(wikipedia)


そして書物読解の重視は、やはり識字率上昇を招いていく。


書物とドグマ/経験則と


■経験則の弱点=属人的

人は社会の中に投げ出され、いろいろな目に合い、そして経験を増し、経験則

を頼りに生きていく。これは具体的で確かなものである。そして年を取ると目下の者に対して「まあ世の中ってのはだな」と語りたがる輩も出てくる。この経験則が個人やムラに閉じ込められている時は、それは個人の外、ムラの外で共有・応用・普及することは難しくなる。


書物によるインテリジェンスは、こうした経験則とはまた一風異なるものであろう。


書物で得たものは、言葉や論理に規定されてしまうので、ぼんやりとした記憶や慣習に頼る経験則よりも固定的・形式的である。さらにこれは共有・応用・普及がはるかに容易である。これが経験則にはない強さとなる。


命令預言によるドグマが、普遍性・一元性を要求するとき、それは標準化ビッグバン、人類単一起源説などに帰結していくのかもしれない。さながら、唯一神の創造した世界を解き明かしていく作業である。それはある意味、多神教の古代ギリシャの人間中心主義とは一風異なるもののはずだろうか。プロテスタントが「神の代理」を否定して人間を不完全な存在と規定する以上、非人間的かつ合理的客観的な手法、神が創った完全な世界の秩序を目指そうとする。


■合理主義とツール/客観を生み出そうとする方向


そして欧米の合理主義は、情緒というより、ツールを要求する。


それは方式・メソッド・関数・プログラムを生み出していく。手続き型の司法、デフコン指令制度、ISO管理、トップダウン型の手続き規定など画一的な制度を生み出していく。


また、いわゆる文系・理系という区分けの中で、欧米の文系は統計学等を駆使した指標・ランキングを多発する。さらに事例集を共有させる。そしてベストプラクティスを多数がコピーしていく。トヨタの看板方式はJITシステムとしてマサチューセッツ工科大が標準化し、多くの製造業で模倣された。日本にはこういった標準化の取り組みがいかんせん弱い。こうした方向は、客観を生み出していこうとする運動のようにも思える。ある経済指標が不完全であれば、次はビックマック指数VIX指数など、指数だらけになっていく。それらはある意味すべからくツールなのだ。


なたは具体的にどんなツールを活用しているだろうか?


日本人の弱点を知る


自由な個人を標榜しながら規格化・標準化・イノベーションに優れている欧米は簡単に馬鹿にできるものではない。日本人が相思相愛で進んでいくとガラパゴス化・お家芸化し、どっかの文系馬鹿が宣伝する一過性の祭りに興じてしまうのと対照的である。


年功序列・経験則・直感主義・情緒身内集団・シマの分配・タコツボ型ムラ社会の日本では、欧米のそういうドグマに支配された集団メンタリティーは理解できないかもしれない。

*日本人が一致団結して外に対して閉じているわけではない。日本人のムラ同士がお互いに対して閉じているのだ。結局、空気と霞ヶ関くらいしか日本人を束ねる共通原則がないので、表面的には空気がものを言い、実務的には官僚の指導をあおぐことで成り立っている。


しかし統計上の算定値に過ぎない視聴率などを追いかけるサラリーマンがたくさんいる。マーケティングが必要なビジネスもある。それなのに「ふん、客観なんてありゃしねえよ」「そんな指標完璧じゃねえ」ということになる。客観を否定するならば主観だけとなり、そうすると直感経営「うん!びびっときた」「なんだかいけそう」になる。


そして「なんとかなる/そんときはそんときや」超楽観的に始まり、うまくいかなくなると「みんなで死のう!」と突如悲壮感につつまれる。


そして「人情と絆の素晴らしき世界」という自画自賛の後ろではパワハラ自殺・妊娠解雇・追い出し部屋、渡辺オーナー商店なのに党名「みんなの党」だとか奇天烈で陰湿きわまりない汚物が溢れている。みんな過労死するくらいこうしたシステムを一生懸命支えているが、それは建前が見え見えの一種の喜劇なのだ。そして日本人らしく生きているから「幸せ一杯」なのではなく、矛盾が押し隠され村八分的恐怖の中で人目を気にしながら「ストレス一杯」だというのである。これでは「世界の人よ、日本人みたいになれよ、そのほうが幸せになれるぞ」とは言えない。

オシム氏、日本のストレス社会について語る(supportista)


夏目漱石は、


  智に働けば角が立つ。
  情に棹させば流される。
  意地を通せば窮屈だ。


という言葉を残したが、日本人は情と意地に溺れやすい性向があることを自覚すべきだろう。


ルールよりも情実、「泣いて馬謖を斬らない」身内への甘さ、PDACを回さずにうやむやにしてほとぼりが冷めるのを待つ、空気で右往左往する。そういった情緒・疑似科学的スピリチュアリズム・アフォリズムへの傾倒を自覚すべきだ。


自分達をつきつめていかないと、自分達を改造することもできない。また異国の中にただよって生存し続けることもできない。無知の夜郎自大では。。