誰がてめえを食わせてやっている?
技術革新というのは必ずしも白衣の御茶の水博士のことではない。
パソコンのOS(とりわけGUI)は、ゼロックス研究所のアイデアをアップル社とマイクロソフト社が盗んだものだった(後に訴訟になる)。シリコンバレーは、日米戦争でも活躍したトランジスタの父ショックレー博士に反抗して会社を辞めた「けしからん若者達」がシリコン半導体に入れ込んで生まれたものである。業界秩序や組織人としてのあり方からすることこれらは「けしからんこと」であろう。
*ショックレー博士がシリコンではなくゲルマニウム半導体に入れ込んでいたのは、学者としては間違いではなかった。シリコンはゲルマニウムよりも不安定だった。ゲルマニウム半導体は軍事や宇宙開発などで高価だが安定性の高い半導体として残っている。
「革命とはサロンでお茶するようなものでない」という言葉もあるが、イノベーションも大御所を後ろから鉄パイプで殴って椅子を奪うような乱暴なものである。それほどのインパクトがなければ韓国電子企業のような猿真似か改良、延々と続編ばかり作っている映画製作のようなものに陥る。
*シュンペーターによれば、イノベーション型資本主義が既得権(封建領主)を滅ぼし、それは次の世界も次々と壊していく。破壊を恐れイノベーションのない国家護送船団資本主義になれば既得権が壊れずに強者(既得権大御所)を守る腐った社会主義に転落する。
■社員発明と会社主義
江戸時代ですら平賀源内のような異端児を生み出した好奇心旺盛で探究心・学究心も強い日本ではあるが、サラリーマン安定社会を実現した後、ますます異端を恐れひたすら予定調和の継続を念じているかのようだ。その一つに社員発明について自動的に会社のものにするという政策がある。これは会社主義の賜物であろう。
・平賀源内(wikipedia)
・特許、無条件で会社のもの 社員の発明巡り政府方針転換(2014/9/3朝日新聞)
この判断に大きな反発が生じるとは思えない。サラリーマンなら「それでいいじゃん?何が問題だ?」となることは間違いない。青色LEDの件での反応もそうであった。
・青色LED訴訟、日亜が8億4391万円支払いで和解(itmedia2005/01/11)
そこから透けて見えるものがある気がする。
言うならば「一体誰がてめえを食わせてやっている?」という意識である。「組織」があなたを守り食わせているということは日本人なら理解できるだろう。
むしろ西欧から移入した「個人主義/自由主義」の方が日本社会にとって異質なものである。それは山梨に「ハイジの村」を作るが如き西欧にあこがれた表層の妄想にすぎず、建前でしかない。日本はアルプスや北欧などの西洋ではなくパキスタン名誉殺人等の慣習のあるアジアに近いということを忘れている。
・山梨「ハイジの村」のセントバーナード犬、女性客にかみつく(産経新聞2014/7/26)
・『名誉の殺人 母、姉妹、娘を手にかけた男たち』(現代ビジネス)
・「人権は国亡ぼすペスト菌」? 人材育成新聞「ヤァーッ」内容がスゴすぎる(2012/11/2J-cast)
*プロテスタントにとって重要なイエスの「山上の垂訓」では、すべて人間は等しく神の子であり対等な兄弟姉妹(ブラザーとシスター)であり、「神の国」は金銀で飾った大神殿ではなく心の中にあるとされた。それゆえ、古代の祭祀は偶像崇拝的なものとして忌避され、祭祀と宗教が区分されていく。また「神の下の平等」という思考が根付く。中世の「叙任権闘争」では皇帝も王も、神の法の下にあることとなった。それが「個人主義・自由・平等」という欧米思想の根底にある。
日本人の本音は「組織」に権利があり、個人に権利などというものはない(それゆえ暴力団や宗教カルトという組織を解体するのも難しい)。個人というのは世間から恩寵を授けれられて生存を許されているのにすぎない。組織のために個人が犠牲になったとしても、組織が個人のために犠牲になることなどない。21世紀になってからもそれは次々と明らかになっている。
*また巨人軍の監督は巨人選手から、という流動性のないお家主義である。
*テレビ・ドラマ『スクール・ウォーズ』では「王選手がユニフォームを着ているから個性がないって言うのか?」というわかりやすい形で日本の感覚が説明されている。
*しかし野球界においては「移籍の自由」などが大きな転換期となって個人主義化している。これによって世界にも出て行き易くなった。野球選手は滅私奉公従業員ではなく、球団と契約しているだけで、その技能は個人のものである。それゆえ、もっといい年俸があれば移籍する。
日本人の本音=組織・集団という身の保障
偉人列伝や賢者のアフォリズムが大好物の日本人であるが、実は個人にそれほど力はない。
個人のキャラを売りにしている芸能界も事務所の力や寡占状態のテレビ局の力などがモノを言うとされている。芸術においても日展不正のように会派が作品よりも重要であることが立証されつつある。芸能人はテレビ局スタッフや芸能雑誌記者からも人気がないといけないのだそうだ。こうした雑多な組織と集団が決定権を持っている。寄ってたかっているようにしか見えないが。
・日展不正が物語る身内主義(当ブログ)
・小栗旬が「干される覚悟で挑む」日本の事務所の力と裏の世界とは(NAVERまとめ)
これは歴史的にもそうだった。
こうした雑多な組織が押し合いへし合いする文化が日本に顕著となってきたのは中世以降だと思われる。
*足利将軍は番頭=細川氏に牛耳られ、やがて細川氏は臣下の三好氏に牛耳られ、三好氏は臣下の松永氏に牛耳られ、松永久秀が将軍義輝を暗殺したことで、信長等が台頭することのできる時代となった。現場を掌握している目下の者達に実権が移ってきた。兵や兵糧を都合する農村を直接掌握している土豪達が強くなってきた。親分は実は神輿をかつぐ者のために存在するという集団主義となっていく。
*「応仁の乱」が大河ドラマで取り沙汰されることはほとんどない。それは当時の人にも理由のはっきりしない「乱れ」であったようだ。あなたの大好物の帝王=信長!立身出世=秀吉!といったスッキリした講談にならない。だがその時代に出現した足軽集団が一族郎党という古い仕組みを一掃し、領主や名家は軍閥化・軍団化せざるを得なくなっていく。それができない場合は名族であろうと滅んでいった。
*江戸時代になれば、「家」はますます法人のような組織になっていく。家長も好き放題にできる自由人独裁者ではなく、「家」の管理維持にいそしむ役員にすぎなくなっていく。
つまり、「組織」というハコに権利があり、集団が主役で個人には権利などない。家主義と同じである。これが本音であろう。
■生涯保障としてのハコ
それは何があなたに生涯保障や福利をもたらすか?ということである。歴史における「氏族」や「家」というものは当時の社会保障の源泉であったとも言える。戦後に「会社主義」が蔓延したのは、戦前は依然として自営業形態の労働者(個人商店含む)が会社法人の労働者よりも多かったが、戦後になって株式会社形態の組織が産業を蓋い尽くすことになったためだと思われる。
*戦後しばらくは大企業ですら日給月給だったが、それと比べると会社の保障力も格段に向上した。
家主義(戦前)→ 国家主義(戦中) → 会社主義(戦後)へ
だから、表層の個人礼賛(カリスマ!)と深層のハコ主義(会社主義)がある。
日本だけの現象でもない。
■戦後は大企業の時代
米国のリバタリアン議員として特異なロン・ポールは米国の政治社会経済に蔓延する大企業主義(corporatism)を批判している。ロン・ポールはスモールガイ(個人)が自由活発な昔の米国の自由主義に憧憬を抱いている共和主義・保守主義者ということだろう。考えてみれば、米南北戦争後に鉄道バブルが沸騰するまでは、米国は中小零細農民=個人の国だった。またドラッカーが着目したのも、もはやそれ自体が国家と言えるくらい巨大化した組織=GMであり、戦後の新しい会社コミュニティー・会社の社会化であったようだ。
戦後社会は、先進国を中心に明らかに大企業社会となった。
*鉱山・造船のような大資本を前提している産業だけでなく、ドーナツ屋まで大企業化したところが戦後の特徴であろう。商店街の没落を嘆く奴もいるが、そういう輩もスタバに行き、家電は大手量販店で買っている可能性がある。
「法人」が「自然人(個人)」を超えて世の中を牛耳る。
誰も個人など相手にしない。あなたが名刺でチェックしているのも組織である。どの組織に帰属しているのか?学歴も同様である。履修科目などクソくらえ、どの学校に帰属していたのか。そうだろ?
*このような環境では研究機関としての大学は死んでいくだろう。人々は学問よりも身分を求めているのである。さながら都の官位にあこがれた地方豪族である。
*日本においては「法人の政治献金」が許容されているところが米国以上に会社主義が進んでいる部分である。
人気者商売も組織事業
芸能人のお店を巡りいろんな騒動があるようだ。実はプロデュース(?)だけ、名義貸しだけ、だったとか。またゴーストライターなどに世間が驚くと、業界人は「何を今更・・」となるのだろう。
*名義貸しだけでも法的責任が生じる場合がある。
・著名人の名義貸しと損害賠償責任(美貴亭食中毒事件)(アゴラ山口利昭)
飯屋の場合、確かにビールはその大元は特殊な地ビールでもない限り、どこでも似たり寄ったりだろう。食材は生産者と直契約しない限り、誰もが似たような流通経路を辿る。調理場が要となるがファミレスのような効率性を求めれば学生アルバイトでもできるようにマニュアル化せざるを得ない。現在の経済システムの圏外で特殊なことをやると、べらぼーに高価なものになりそうである。つまりそれほど変わったものはできないはずである。
だが多くの人がこうした人気者の副業に憤りを覚えたりするのは、その個人に対する信頼や愛着が裏切られた気になるからかもしれない。
■ゴーストライターに見える組織・集団の姿
しかし実態として、書籍ならば紙問屋から書店に至るまで古い組織が重層的につながっている。この経済マシンにとって紙を大量にさばくのに必要なのは表紙と表題である。芸能人の本が売れるのなら、「個人」という装いを作ればいい。実際には、「がんばってます!」というかわいらしいアイドルの本には不機嫌な髭親父や妻子を抱えたサラリーマン男性が幾人もからんでいるというわけである。
・NHKはなぜ「偽ベートーベン」にだまされたのか(2014/2/12池田信夫)
*電子書籍ビジネスは、この紙を消費する古い経済システムに打撃を与えるものだ。
*電子書籍を排除して紙消費システムを温存するようなガラパゴス化の実現は日本では可能であろう。
*電子書籍では、紙大量販売にあった売る仕組み=企画煽動という手段がいまだに欠如しており、意外と伸びていない。モノをさばくというプレッシャーがないことがそうさせているのかもしれない。
要するに現在は、個人が純粋に個人として機能することが可能な経済システムではない。経済は極めて高度に集団化・分業化・組織化されている。
ただ、一部の産業とりわけ消費産業において、「個人」への崇拝・共感がアフォリズム的に人を動員する力となっているため、やらせ的になってしまう。現実は組織によってすべてが動いている。ちょうど、「厚生省が云々」「経産省が云々」という具体に役者が見えてこない組織が背骨なのである。
*「やらせ」でないようにするには、映画のように最後に延々と協力者や背後のプロを連ねればいい。実際、映画製作のように大勢の人が協力しているのだから。
*米国では『ドッド・フランク法』など立案者やまとめ役(ドッド議員とフランク議員)の名前が通称として使われることがあるが、日本では「厚生大臣○○が○○を推進」「経産省局長○○の発案で○○の方向へ」とかいう個人特定がないことが多い。それゆえ、名前のない形となる。要するにその脳みそは明らかである。
非個人主義の逆説
ところで個人主義(自由主義)の理想など度外視してみよう。日本がそんな土壌だと割り切ってみる。
そうすると逆説的には、どんな個人も自営業者も、なんらかのネットワーク、組織(同好会や研究会でもいい)等の「装い」だけでも必要ということであろう。できれば「法人化」してしまった方が日本という社会環境では有利かもしれない。
暴力団組員と、単に「刺青を入れた乱暴者」では「月とスッポン」くらいの違いがある。これも組織のある無しが大いに関係あるだろう。
「有名人○○の料理教室!」という個人を売りにする商売ですら「法人化」してしまったほうがいいということだ。個人として秀でた人も、何らかの「組織に帰属」という体裁を持っていた方が日本ではスムーズにいくだろうということである。
そして実態がなくて形だけでもいいから、○○支部長など肩書きに「長」をつけることである。部下がゼロでも「長」をつけたまえ。そういうものが何故か日本人を納得させ平伏させるのだから。