死の勝利 | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。


権力システムと日本社会-死の舞踏
現代は「死」を忌避する文明であるという。
「死」というのはテレビのニュースであり退屈な儀式であり、生きている者のための社交辞令である。


「死」というものは多くの場合必ず他人事である。


われわれは常に、「生」を求めて目標を掲げ、葛藤し悩み不安におびえ、自分に喝をいれ、またはなんとなく生きている。「生」は常に賞賛されるもので、それは必ず「死」よりも良いものでなくてはならない。


社会は自殺を嫌う。そしていつでも「生きているって素晴らしい」というポジティブなメッセージがあちこちに満ちている。テレビ番組をつけるといつでも和気藹々の暖かい見世物。職場ではみな目を吊り上げて異様に緊張しているというのに。

西田ひかる - 生きてるって素晴らしい(youtube)

ストーンズの"Flight 505"のような、新たな希望に燃えて飛行機に乗った青年だが途中で墜落し・・「それが505便の最後さ・それが505便の最後さ」と終わるような残酷な歌は聞かない。
The Rolling Stones-Flight 505(youtube)


死の勝利


ところで14世紀欧州の黒死病は欧州人口の1/3を死滅させたという。イタリア諸都市の東方貿易が活況となり、欧州各地に商業都市という不衛生な密集状態がうまれていたためか莫大なパンデミックを引き起こした。


そこで後世に『死の勝利』なる絵画も描かれている。
著名なブリューゲルのものあるが、作者不詳のパレルモの絵画のほうが暗くてよい。
『死の勝利』、パレルモ州立美術館(Mizumizuのライフスタイル・ブログ )


「死の勝利」というタイトル自体がすばらしい逆説としての力を発している。


日本の構造と世界の最適化




ついに死が勝利した!


人間の浅はかな抵抗を吹き飛ばし、絶対的な強者として君臨する。あらゆる計画や将来のための我慢だとか、「死」を脇役に追いやろうとする人間の努力。あらゆる人間社会の掟すら踏みにじり、「死」が人間を駆逐する。人間に与えられた真の平等も「死」であった。


蒼き馬に乗る「死」はそんな支配者のような印象を与える。


ロマン派の詩人シェリーは「アドネイス(キーツの死を悼む挽歌)」で、死生観を語っている。そこでは「生」の不完全さが語られている。


Peace, peace! he is not dead, he doth not sleep-
He hath awakened from the dream of life-
'Tis we, who lost in stormy visions, keep
With phantoms an unprofitable strife,
And in mad trance, strike with our spirit's knife
Invulnerable nothings.-We decay
Like corpses in a charnel; fear and grief
Convulse us and consume us day by day,
And cold hopes swarm like worms within our living clay.


静かに、静かに!彼は死んではいない、眠ってはいない
彼は人生という夢から醒めたのだ

むしろ我々のほうだ、幻覚に我を忘れ、
幻影にまどわされながら無益な葛藤を繰り広げる、
狂ったように恍惚として、精神の刃で、「不死身の無」に切りつけようとする

我々は納骨堂の遺骸のように朽ち果てていく;
恐怖と嘆きが日に日に自らを蝕んでいく、
そして冷たい希望が、われわれの生ける屍を蛆虫のように這い回る

Adonais by Percy Bysshe Shelley(About.com)

■人間の暴力
多くの生存中の人は、やがて望まない「死」を迎えるのだろう。しかし自ら望む「死」=自殺がある。
自殺は暴力を自分に向けるようなものだ。外に向かえば殺人事件になる。だから自殺者が多いということは、暴力を生み出す条件が整っていることでもあろう。
自殺者、11年連続3万人=08年度版白書(2009.11.17時事通信)

人間の暴力は動物的に考えると防御と攻撃のためである。


暴力は共同体という相互扶助装置によって、身分制によって、または宗教によって押さえつけられコントロールされてきた。そして、近代が到来すると、暴力は貨幣経済によって統制されるようになる。カネをくれる人には逆らわない。カネをもらい続けるためにバカなことはしない。人生は生存の糧であるカネを恒常的に得ていく周到な計画となった。


■人に迷惑をかけない自殺
大都会では"人身事故"という言葉を耳にする。それはたいがい線路への飛び降り自殺だ。早朝の遅刻を避
けるためイライラしている多数の乗客にとって、そういった自殺は迷惑きわまりないだけのものだ。


硫化水素や練炭などさまざまな自殺方法があるが、人にまったく迷惑をかけない自殺方法などはないだろう。また焼身自殺など派手だが、実は自ら焼け死ぬのは相当大変なことである。人間は火に包まれるだけでは簡単には死なない。ベトナム戦争の頃は、僧侶による抗議の焼身自殺があったが、あれは常人には無理だ。


死体を搬出するのも人手がかかる。捜索や葬式だってタダじゃない。人のせいにせず人を憎まず、自分を責め殺したいような真面目な人は、他人に迷惑をかけることを考慮して自殺をするべきではない。また貯金もない人は自殺をするべきではなかろう。「死」というのはカネのかかる一仕事だ。
*世界最初の保険はイギリス修道士の葬式代積み立てであったという


■殉教の発明
人類は各地で宗教を生み出してきたのだけど、キリスト教は明確に「死」を逆手にとった。これは極めて
特異なものだと言わざるを得ない。


福音書の中でもヨハネ福音書では殉教が強調されていて「愛の宗教=キリスト教」とは異質だ。


エルサレムに現れたイエスは、「一粒の小麦は地面におちて死なない限り、一粒の小麦のままだが、死ねば多くの実を結ぶ」と語って、自らの運命を暗示する。撒かれる種の話は他の福音書にもあるが、ニュアンスが異なる。


彼が何度も口にした「神の示す栄光」とはゴルゴダの丘で十字架刑に処せられることであった。十字架刑は体力を消耗しつくし呼吸困難になって死亡する過酷な刑であった。イエスは絶命する瞬間にヨハネ福音書では「成し遂げられた!」と言ったという。


またヨハネ福音書では復活したイエスがペテロを「わたしの子羊を養う者」として後継者として認め、ペテロの殉教(ネロ帝の迫害で逆十字で処刑)を暗示する。


ヨハネ福音書では殉教とはまるで「永遠の生命」の資格であるかのようだ。


いずれにせよ殉教という観念は、強力な武器であった。弾圧されればされるほど信仰が強化される。


人間の精神は、肉体的な限界に阻まれるものであるが、肉体の軽視と殉教の美化は、「死」の恐怖を克服するものであろう。


「天草四郎の乱」でのキリシタンの態度「この戦いで死ねば天国は確実」「世俗の法ではなく神の法に従う」は、非宗教的かつ世俗的な徳川幕府にとってキリスト教の特異な部分を知ることになった。生きるために闘うのではなく、死ぬために闘う相手と戦うのは厄介だ。


明治維新のとき、自由民権運動が過激化していったが、明治政府はやがて国事犯として処罰するのを控えるようになる。獄死した国事犯が殉教者となり、運動がさらに強化されてしまうことに気がついたのだ。それゆえ、強盗などで検挙するようになった。「国家転覆などウソだ!カネが欲しくてやったんだろ!」ということだ。


■「近代の罪」と「死」
どうも環境運動家からは「近代の罪」なるものを責める声が聞こえてくる。大きな尊敬を集める宮崎駿は
、「ナウシカ」では誤った文明の破壊を、「もののけ姫」では自然の破壊を描いている。「われわれは本当は間違っている」という観念が浸透していっている。


環境家らは地球の温度を下げるために二酸化硫黄をまくという科学的解決法には絶対反対だろう。しかし、なぜそんなにも自らを生存させている人為的システムを憎むのか?
地球を冷やす安価な方法(池田信夫blog)

第一次大戦後には虚無で現実に対抗するダダイズムなども誕生した。「近代=ブルジョワ革命」ととらえる人々は社会主義ユートピアを夢想した。「革命という物語」が頭脳を魅了した。


しかし科学と官僚システムに依存して世界を標準化する革命は、結局は「近代」であり、我々はどこまで行っても近代から逃れられない。来た道をわざわざ引き返すことはできない。今更、神がかりにもなれないので科学を加味したスピリチュアル・サイエンスに向かう。われわれは現在の世界に感謝感激などしていない。


だが、「近代」なるものが「死」について納得の解答を与えていないことからすると、「死」は「近代」に勝利するかもしれない。科学は「死」を超越することはできず、せいぜい植物人間として長寿させる程度だが、精神においては「死」を超越する方法がありうる。そうであれば「生」という物質的限界に閉じ込められ萎縮した世界を解放できるだろう。


「死」すら克服できるもの、「生」からすら自由になることができれば、人間は完全な存在になれるだろう。革命について熱くなる時代は終わった。ならば次は「死」に対して熱くなろう。