判例主義と前例主義をとりちがえるな | 日本の構造と世界の最適化

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戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

判例主義と前例主義


「裁判員制度」の導入によって、裁判についての関心も高まっているように感じる。


とりわけ、今回の裁判員制度が、死刑か無期懲役を争う重大事件に限定して導入されていることもあり、「判例主義」が取りざたされることがある。


死刑については1983年最高裁判決が導き出した「永山基準」が判例として君臨している。

*永山事件(永山基準)


しかし、テレビなどで、「判例主義はダメだ」という軽い発言も多い。これは「前例主義」ととりまちがえているのではないか思う。


            判例主義 ← → 前例主義



「判例主義」についての混乱


判例は、英米などの「判例法国」では、「法源」として法と同様の力を持つ。それゆえ英米の裁判官は強力な力をもっていることを自明なこととして認められている。また英米の弁護士になるには、200年前の判例まで研究しなければならない。


しかし「成文法国」である日本では、判例は重要だが「事実上の拘束力」しか持たない。ただし、具体的事件の解決に妥当な判決が繰り返されれば、日本でも、そこに連続して流れる規範は法に近い力を持ちうるだろう。妥当でない判例は一過性のものであろう。


また英米でも判例に機械的に従ってるわけではない。単に前例を繰り返すだけなら、数百年の判例を持つイギリスの裁判は現実にあわずえらいことになっているだろう。


■法哲学としての判例主義「書かれざる法」

僕は「判例主義」は、「書かれざる法」を見出そうとした帰結でありその努力だと考える。つまり積み重ねられた判例に普遍性があるかを問う作業を裁判官はする。それは法哲学としての「判例主義」である。


社会において、道徳律の根幹が世代を超えて存続しつづけるのに似て、繰り返される判例も個々の解決が妥当なら、それは「不文の法」という支配力をもつ。


「判例など無意味だ」と軽々しく言ってしまえば、明治以来積み重ねられた判例を手がかりに形式的な法文の中に流れる「生きた法」を見出そう研究する学者や法曹界は、実はバカ集団ということになる。

*大正時代の民事判例で現在でも生きているものが多々あるようだ


確かに裁判官が、個々の事件の妥当な解決を無視して機械的に判例に頼って結論を導けば、それは硬直的な悪しき「前例主義」といえよう。行政の「前例主義」と同じ姿勢である。


■判例主義が悪いのではない

もし、かつて妥当と思われた基準がもはや妥当でないならば、裁判官とりわけ最高裁は判例変更すれば良い。それは勇気と責任の問題であろう。




判例変更は度々あった・10年で変更ありうる

たとえば公務員(現業職員)の争議権について、1966年に最高裁はストへの刑事制裁をきわめて例外的なものに限定することで争議権を容認する姿勢を示した(全逓東京中郵事件)。しかし1977年には判例変更を明確に宣言して非現業と同じく現業にも実質的に争議権を否定した(名古屋中郵事件判決)。容認された争議権が一転して否定された。つまり10年余りでも判例はこんなに大きく変わりうる。


  1966年の最高裁判例:公務員に争議権あり

            ↓

  1977年の最高裁判例:公務員に争議権なし  


「永山基準」は繰り返されたけれども、それが永遠の普遍性を持つとは限らない。


確かに憲法が毎年書き換えられたり、判例基準がころころ変わる国というのは、不安定な国だろう。それはきっとクーデターや暴動が頻発したり弾圧が激しい国であろう。


しかし、世界史はページを増やしつづけ地球は静止していないし、社会ですら次第にではあるが大きく転換してゆく。


裁判官は自らの判断が一般的影響力を持つことに注意しながらも、あくまでも個々の事件で妥当な解決を図ればよい。個々の解決が歴史の中で例外的ケースなのか、なんらかの普遍性を持つかは、歴史が答えを出すことであろう。


とにかく、「裁判員制度」アメリカ的制度ととらえる人が多いくせに、アメリカはきわめて「判例法国」である。アメリカばっかり眺めているくせに「判例主義はダメだ!」と叫んでしまうテレビの人間たちは軽すぎる。


そもそも「判例主義」という言葉があいまいなんだろう。○○イズムのようにとらえてしまう。



前例主義や形式的判断の方を批判すべき


■紋切り型の判決理由を許すな

刑事事件に限らず、司法府は紋切り型のえらく短い判決理由で片付けることもあるのだ。最高裁が「公共の福祉に反しないので法律は合憲」というだけの判決理由を書いていた時代もあった(政府はありがたかったかもしれないが)。


国民としては、「裁判を受ける権利」「知る権利」の一環として、より精緻な判決理由を要求していこう。○か×かの結論ばかり注目されるが、判決理由はきわめて重要だ。ところがマスコミは判決理由を解釈せず、裁判官の道徳的訓示だけを報道したりする。

*○×結論は受験脳の影響であろう。


日本は転換期か過渡期にあり、司法府もこれに対して歴史的責任を負っている。


そして、判決理由が曖昧であったり、あまりにも形式的ならば、我々はこの妥当性を問うことができる。それは今まで学者だけの仕事だった。賛成論や反対論の熱い論戦は専門家や象牙の塔の世界では行われてきた。しかし、「裁判員制度」導入によって、市民もこれに無関心ではいられないようになる。