「想像が追いつかない」
見えない障害と、親としての告白
「お母様、その『ちょっと』って、何分?」
私が何か他の作業をしているとき、声をかけられると
「ごめん、ちょっと待ってて」と娘に言ってしまう。
怪訝な顔で聞き返され、私は一瞬、言葉に詰まります。
「そうだった、、そうだった」
彼女は「『あと5分待ってて』ならわかる。
でも、『ちょっと』はわからない。不安になる」
と言います。
このやり取り、何度も繰り返しているのに…。
これこそが、私たちが日々直面している
「見える障害」と「見えない障害」の、
高く厚い壁の正体なのかもしれません。
一昨日の記事(
)では、予期せぬ「予定変更」への困難について書きました。
今日は、なぜ私たちが「ちょっと」という言葉を無意識に使ってしまうのか、その根底にある問題についてお話しします。
■見える障害を持つ母
一昨日のブログでお伝えしたように、
「見える障害」を持つ、私の母は97歳。
脳梗塞の後遺症で、右半身がほとんど動きません。
母に「そこの棚の上にある本、取ってほしい」と思っても、
私は無意識に、瞬時に想像ができます。
「彼女には無理だ」と。
母の不自由さが「見える」から、その大変さを具体的に「想像」できるのですね。
もちろん、これは決して「見える障害の方が良い」
という意味ではありません。
母が日々感じている不自由さ、葛藤は、
私などが到底計り知ることのできない、筆舌に尽くしがたいものです。
障害に優劣などあるはずもありません。
ただ、ここではあくまで「周りからの想像のしやすさ」という一点において、違いがあるということをお伝えしたいと思います。
■「見えない障害」は、想像が追いつかない
そう、想像できないのではなく、追いつかない。
私にとって「ちょっと待ってて」は、
「ほんの数分」という共通認識が先に頭に浮かんでしまいます。 でも、娘の頭の中では、その「ちょっと」が
「5分なのか」「30分なのか」
「それとも忘れられてしまうのか」全く見当がつかず、
ただただ不安な時間だけが過ぎていく。
彼女にとって、それは拷問に近い感覚なのかもしれません。
娘に言われてハッとするのが常です。
私は、母の「無理」は簡単に想像できるのに、
娘の「ちょっと」という言葉の迷路で迷子になる苦しさは、
想像するのに時間がかかります。
■社会に潜む「想像力の壁」
この「想像力の壁」は、家庭内だけの問題ではありません。
もし、演出家が
「君の感性で、ちょっと自由に動いてみて」
と指示したら?
共演者との打ち合わせで
「なるべく早めに集まろう」と決まったら?
定型発達の脳が判断する「常識」や「暗黙の了解」で
済ませているコミュニケーションは、
彼女たちを混乱させ、追い詰めます。
でも、それはもう、
本やセミナーなどで言い尽くされている気もします。
でも、いうは易し、
実践できないんです。簡単には。
すごく悔しいですが、、
だからこそ、「具体的な指示が必要だ」ということを、
周りに理解してもらう必要が出てくる。
そのために、
自分がASD(自閉スペクトラム症)であると
告白すべきなのか…?
話は、彼女たちの「生き方」「働き方」という、非常に大きなテーマへと繋がっていきます。
(本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。)
【次回の予告】
俳優やシンガーとして生きていく娘にとって、
コミュニケーションは避けて通れない道。
曖昧な指示が飛び交う稽古場で、自分を守り、輝くためには
どうすればいいのか。次回は、「障害をオープンにすること」のメリットとデメリットについて、私たちの葛藤をお話しします。
