フィリピン工場が稼働して数年後、フィリピン政府の援助も有りドイツのミュンへンのISPOの展示会に出店して、欧米のスポーツ用品業界にスキー帽を売り込もうとしました。ブースの来訪者は大勢有り、一様に「これだけの物がフィリピンで出来るのか」と驚くとともに、「フィリピンで作っているのにこんなに高いのか」と再び驚いていました。
フィリピンのニット工場は日本での上代が5,000円近くする特別なスキー帽を作っていましたので、製品としては問題ない物でしたが、コストも日本並みになり、結局欧米からの注文はまとまりませんでした。
ただISPOの会場で、当社の商品を見たオーストリアのアイスバー(EISBOR)のオーナーが香港の私のオフイスに訪ねてきて、スキー帽の生産についてたくさんの話をしましたが、当時我々の工場も生産余裕が無く、OEM生産には至りませんでした。
しかし私が初めてヨーロッパで見たスキー帽を日本でも作りたい思って、その目標としたアイスバーのオーナーやデザイナーであるその奥さんと、スキー帽について話し合いの時間が持てたのは、とても幸せな時間でした。
日本の材料や日系の工場の材料を使い、全て日本と同じ様に作り香港の合弁会社を経由して、日本で販売する製品は、徐々にコストが合わなく成り、香港事務所が開拓した中国の工場の生産技術も上がると、当社にとってフィリピン工場の価値が低下し、日本の本社からもコスト面で、中国工場での生産を要求され、また合弁相手のパートナーからも香港事務所を経由しないで、直接フェニックスに販売すれば、コスト面で、単価を下げる事が出来るとの要求が有り、合弁のパートナーと話し合った結果、それぞれ50パーセントずつ保有していた、フィリピンと香港の会社を、フィリピンは合弁相手に、香港は私の方に譲渡する事で、それぞれ独自に継続する事になりました。
その後 2~3年は日本のニットメーカーを生産管理の仲介に入れ、フェニックスとこの工場の間で、直接取引をした様でしたが、工場は閉鎖してしまいました。
即利益を追求する事が一番の現地のパートナーと、『品質や生産システムを確立出来た時に利益は生まれてくる』と考えていた、私の考えとの違いが、結果的に工場運営に失敗した苦い経験になりました。