帽子作り50年のブログ -20ページ目

帽子作り50年のブログ

帽子やアパレルを海外工場で生産する経験談

50年前の東京オリンピックの頃、私は未だ高校生でしたが家業の帽子のデザインに興味を持ち、当時未だジャガードや機械刺繍の入った帽子は一般的でなく、クロスステッチの柄の入った手刺繍のニット帽子が良く売れる時代だったので、方眼紙にクロスステッチの柄を書き込んで、学校が終わったあと無地の帽子と刺繍の絵柄を持って、団地の主婦の家を回り刺繍加工を依頼して回っていました。当日自分の作った刺繍のデザインのついた帽子が売れて行く事で、ものつくりが面白く成り、大学生時代には、ブームに成っていた手編みの帽子を手編み教室の先生に依頼して、デザインを起こして貰い、それを教室に集まる生徒さん達に編んでもらう方法で、幾つかの教室を回る日常で、大学にいる時間より帽子を持って歩いている時間の方が、長く成りましたが、それに違和感は無かった。
そんな訳で、大学卒業後もそのまま家業の帽子生産に従事し、かれこれ50年未だに帽子生産に携わっている訳です。生産する帽子の種類やオーダーをくれるお客様、生産する工場の国など、変遷が色々有りましたが、台湾や韓国、そして中国やフィリピン、ベトナム、それにアメリカでの帽子工場で、生産の打ち合わせをしていると、今迄の苦労や失敗の経験で、生産の打ち合わせをしている工場の未来が見える様な気がして、今迄の帽子生産に関わる思い出を一度整理してみようと思いました。

東京オリンピックやビートルズの初来日などの有った当時は、未だ日本製品が “安かろう 悪かろう” の時代で、輸出商社を通してアメリカに輸出していたニット帽糸も納期が間に合わないと、ビニール袋の中に未だポンポンの付いていない帽子とポンポンを入れて、買った人が自分で付けて貰うとか、サイズの規格が合わない場合は、蒸気で目一杯に延ばして、とにかくサイズだけは検査をパスする様にしたりとか、 “安かろう 悪かろう” が一般的な時代でしたが、そのうちドルショックや繊維の自主規制が始まると、輸出の仕事は激減して、どの帽子屋もこれからは ”国内販売にシフトする計画” が合い言葉の様に成っていました。ちょうど今の中国の工場が口々に、"これからは ”国内販売にシフトする計画” と話すのを聞くと、中国もいよいよそのような時代になったんだなーと、考えひとしおです。