東京浅草の小さな帽子工場の倅として生まれた私は、子供の頃から帽子の中で育ち、学生時代から帽子の生産に携わって、かれこれ50年。茨城県に新しく帽子工場を造ったのを皮切りに韓国や台湾で、生産を委託する為に職人を送り込んで、日本式生産方法に依る帽子の生産と日本への輸出を行い、25年前からは、香港に移住して中国各地で、長年帽子生産を続けるとともにフィリピンでは、帽子の生産工場を合弁で立ち上げたりと、50年間帽子と共に人生を歩んできました。そんな私が、帽子を作ってきた立場で、当時の帽子業界の様子や、今も有る帽子作りへののこだわりを、だらだらと綴ってみたいと思います。
先代が始めた帽子工場は、戦後幼稚園児用のメトロ(黄色い帽子)を生産していましたが、当時は車社会の到来で、交通事故が増えてきた為、幼稚園児や小学校の児童は、黄色い帽子を被って集団登下校するのが一般的に成り、ベビーブームの世代が幼稚園や小学校に入学する頃には、黄色い帽子が常に需要過多で、帽子業界は大いに潤っていました。
しかしベビーブームの世代が小学校を卒業する様に成ると(私もその一人ですが)、徐々に黄色い帽子の需要は減り、私の父はニット帽子を生産の中心に切り替えて、存続を図ろうとしました。
当時日本はスキーブームが始まろうとしていた頃で、この切り替えは当たり毛糸帽子の生産工場としては、ある程度成功したかと思います。
当時の帽子メーカーは、子飼いの職人さんを幾つも抱えて、材料を支給しながら職人さんが自宅で生産したものを、回収して帽子問屋に販売する方式が殆どで、帽子メーカー自体の技術の蓄積はあまり無く、業界が結束していた為、新しい製品を作らなくても毎年割当の様に注文が入り、帽子業界は、穏やかな安定した世界でした。(次回に続く)