1977年頃だったと思いますが、当時ハローキティーの人気が爆発しサンリオの第1次黄金時代を迎える直前、私は有る人の紹介で五反田のサンリオ本社を訪ねる事になり、初めてオフイスを訪ねた時、たまたま受付の部屋に人がいなくて、今のサンリオピューロランドのミニチュアのような部屋をウロウロしていると、一人の人が通りかかり丁寧に担当者に連絡してくれたり、社内の事務所の配置などを説明してくれました。後でその人が社長の辻信太郎氏だったと知ったのが、私がサンリオの仕事をする最初の出来事でした。
サンリオは直営店「ギフトゲート」で販売する商品を、既に始めていたライセンスに依る他社での企画生産販売をする商事部門と一線を期す為、ニットの帽子やマフラーを直接工場に依頼する計画で、私は毎日の様に五反田のTOCに出かけて、夜遅く迄新商品の商品内容を打ち合わせをして、注文を取っていました。当時サンリオは急激に伸びる会社の持つある種の熱気が社内に充満していて、夜の10時になっても多くのスタッフが社内に残っていて、部長が早く帰宅する様に声を掛けて回っていました。
ギフトゲートで販売する商品は、サンリオの社内デザイナーが商品を企画し、直接我々の様な工場に生産を依頼する為、従来の様な商品が少なく、当社の技術者も企画書を見るなり、“こんな物は出来ません” と即答する物が多く有りました。当時サンリオの社内デザイナーは、服飾デザイナー学校を卒業して仕事に就いた人が多く、生産の経験はあまり無く、まして帽子やマフラーの様な周辺商品については、殆ど生産の経験は無い為、画の段階で私に生産可能か聞いてくる事が多く有りました。
彼らの企画に今迄に無い斬新さを感じていた私は、そのまま工場に持って行けば色々理由を付けて、突き返されてしまうであろう企画書を、なんとか商品化しようと材料商社や刺繍工場などを回り、試行錯誤の末にサンプルを作り上げて来ました。その為にいざ生産が始まると色々問題が発生し、まともに納品が出来ない事態も多々有り、生産担当者にはだいぶ迷惑を掛けましたが、そんな中でどうしても間に合わせないといけない商品を、徹夜で地方の外注工場から回収して回り配送倉庫に届けた時などは、生産担当者が朝から待っていて、『菊地さんありがとう、これで何とかなります。』と言われた時は、苦労が報われた気がしました。問題の元凶は私が作ったわけですが。
そんな訳で、生産担当者からは、新年の挨拶に行くといつも 『また菊地さんと仕事をするはめになりました。どうしてうちの企画は菊地さんにばかり生産依頼するの』と嘆かれました。それはデザイナーが作った企画書を殆ど断らずに商品化する為、奔走したからでした。