1976年に(株)ロムコを設立して、帽子以外の生産を徐々に都製帽からロムコに移行して行った当社は、日本国内のセーターや手袋のニッターや工場との付き合いを深め、生産現場に深く立ち入って行った当社は、ますます職人集団的な色合いを濃くして行きましたが、当時少しずつ増えて行った海外(特に韓国、台湾)からの輸入に対抗して、日本の生産現場を守る為に帽子業界、特にメーカーの意識改革や、生産方式の改善等に奔走していましたが、或る時お客様から「海外の生産現場を見る事も必要ではないか」と言われて、1982年初めてお客様と一緒に台湾の帽子工場を見て回る事になりました。
初めて見た台湾の工場は、技術的にはまだまだ日本と比べて劣る部分も有りましたが、その生産システムについては、私の考えていた生産方式に近い物でした。その後韓国の工場も見たいと思い知り合いの商社に頼んで、ソウルの帽子工場とニット工場を数軒見学に行きました。
結果私は、『日本の帽子工場が海外からの輸入を防ぎ、日本の帽子工場を守る事はもう無理だ。特に日本の生産現場が失いかけていた、生産への情熱が彼らには有る。』と感じて、日本に帰国しました。
数日後、私はロムコの主だった社員を集めた経営会議で、海外工場の視察報告を行い『これから当社は、生産の主体を韓国、台湾に移す準備をする』と発言し、また『出来る事なら当社は全員で韓国に移って帽子生産をしたい』とも発言した為、社員一同驚愕し猛反対を受けました。
当時ある程度帽子メーカーとして、安定していた時期でしたので、業務の中心にいた私の弟からは、社員の心情を代表して『それなら社長一人で行ってくれ、我々はついて行かない』
とも言われました。また長年一緒に帽子作りを研究し苦労してきた職人さん達からも『あと5、6年は、今のままでいてくれ、そうすれば我々も年を取って動けなく成るから』とも言われましたが、いつも心の中では、『それでは遅すぎる、今のままでは5年後に我が社は無く成る』と反論していました。
私の悪い癖でもありますが、『走りながら考える』を実践して、翌年から帽子生産の一部を韓国台湾の工場に委託する為、毎月の様に韓国台湾を訪問し、生産の打ち合わせを行い、大量生産出来る受注の或るスキー帽や、当時既に大量注文の有ったアシックスの「バッタマーク」と称していたロゴマークの入った野球帽の一部の生産を始めたのですが、当初は失敗の連続で、当社の利益には寄与しないばかりか、余計な損失を抱えて、海外生産の問題点を幾つも実体験する日々でした。
このとき私が学習した事は、海外工場に生産を委託するとき、「日本の常識は通用しない」特に「物作りの上で日本の習慣と常識は通用しない」と言う事で、「そんな事言わなくても分かるでしょう」と言った我々の発想は大きな失敗の元になる。との実感でした。
当時私が海外の帽子工場に感じていたことは、
台湾の工場はある程度資金を持った人が、工場を作って始める為、機械も揃っていて、資金力も有り、量産体制を維持しようと販売体制もしっかりしている。しかし社員は労働者で、自分が工場経営者として、独立する事は殆ど考えていないという事です。これは10年ほど前迄の中国の工場にも当てはまる事ですが。
それに対して、韓国の工場の場合は、封建的な空気が工場内でも根強く、少しでも早く技術を習得して、自分が経営者として独立したいと思っている社員が多く、あまり資金力を持たない小規模工場経営者が多く、その為機械設備は古いが、手作業の技術は目を見張るものが有ると感じました。
また一環生産出来る工場が少ない為、分業体制の裾野が出来上がっていました。これは昔の日本の体制にも良く似ていると感じました。