海外生産がある程度軌道に乗る様に成った頃、韓国台湾の物価は上昇し、帽子のコストも徐々にアップする様に成りました。
当社もご多分に漏れず、中国を次の生産地として開拓に乗り出す様に成りました。
当時中国の留学生として来日し、ワーキングビザをとって当社で働いていた北京出身の社員の親戚を通して、中国で足がかりを作るため1986年頃から北京の中国軽工業進出総公司の下部組織の中軽鞋帽総公司を何度も訪問し社員の叔母さんが中国軽工業進出総公司の総裁だった為、政治的なコネを利用して、中国各地の工場を見て回りました。ちなみに当時は未だ中国は北京の総公司の元に全国の公司が管理されていた為、その権力は絶大なものでした。
しかし総公司のスタッフと一緒に見て回った地方の工場は、規模は大きいのですが、我々が一緒に仕事ができそうな工場は無く、何度も中国を回ったのですが、成果は得られ無いまま時が経ち、1989年の6月天安門事件が勃発しました。
私はちょうど事件の前の5月に北京に滞在して、総公司で打ち合わせをしていましたが、天安門広場では毎日の様にデモが繰り広げられ、午後になると各公司では、デモに参加するメンバーの割当が来て、商談どころでは有りませんでした。当時デモの盛り上がりには政府も奨励する様な感じでした。
しかしその後天安門事件の100日後に北京に行った時は、様変わりしていて、密告が横行し、食事の時も政治的な話は一切タブーで、現に総公司の私の担当者も3ヶ月ほど留置所に入っていました。
あのとき私は、中国の法律や規則は一夜にして変わり、異議を唱える事が出来ない絶対的なもので、ある恐ろしさを実感しました。
中国に何度も行って工場を見て回ったとき、大きく分けて中国は華北、華中、華南、と人も街も全く違う外国の様なもので、いくら北京の総公司が要求しても地方の分公司の人たちは、面従腹背で、これではこちらの要求する様なものは、出来ない。その為には、地方の工場に直接入り込んで、その土地の言葉を使うものをスタッフにして、意思の疎通を図らなければ仕事にならないと痛感しました。当時は未だ地方では広東語や上海語が日常使われていて、テレビの字幕でも北京語と広東語が一緒に出ている時代でした。