天安門事件の有った頃、私は、北京と広州を飛行機で往復する様な事がたびたび有りましたが、空の上から長江や沿岸部を見ながら、この国は50年経っても何も変わらない、それほどに大きくていくら開発しても全体に行き渡るには長い年月がかかる。でもいつかこの国は日本に勝るパワーを持つだろうと漠然と感じていました。でもあっという間の中国の変化は、私の想像を絶するものでした。
やっとここなら組んで仕事ができると思った工場が見つかったのは、広州市の旧市街に有る工場でした。工員100人程度の中国では小さい部類に入る工場でしたが、総経理や副総経理が私の語る中国生産の夢を良く聞いてくれて、意気投合しました。それでもこの工場で生産が始まるには、技術指導やサンプル作りを繰り返して、約1年の間、何も仕事が始まらなかったとき、私は彼に「何度もサンプルを作って時間と労力をかけているのに未だ注文を出す様なものになっていない。申し訳ないがもう少し頑張って私の言う事を聞いてくれ」と言うと、総経理は「あなたこそ何度も何度も時間と飛行機代を掛けて来てくれているのに、未だ物にならないのは、申し訳無い。もう少し我慢して続けてください」と言われました。即結果を要求する中国の経営者としては珍しく、今は亡くなりましたが、彼とはその後中国での私の父親の様な存在でした。
その後この工場ではスキー帽や野球帽の生産が始まり、工場も広州駅の近くに移って規模を拡大し工員も400人ほどに増えました。また国営工場で有ったため新たに当社と合弁会社を作り敷地内の1棟を新会社の工場として、日本やアメリカ向けの生産を始めました。
当時は広州や沿岸部の発展が目覚ましく、広州にも仕事を求めて地方から来る人が後を絶たず、広州駅には一日5万人もの人が溢れ、駅前で野宿する様な異様な状態でしたが、我々もその中をかき分けて工場に行く様な状態で、今と違っていくらでも従業員が集まる時代でした。