二つの大学院を卒業して就職先100社以上受けて、悉く落ちて…という知り合いがいた。
(もう連絡をとっていないから 少し過去形ね)

何かの折、その人のブログで、湾岸方面に引っ越して働いている…と記してあったから、なんとか就職出来たんだな。

その人は大学時代に阪神淡路大震災で被災した。
…もし今埋め立て地あたりに住んでいるのなら、液状化現象でまた被災者なのだろうか?
ちょっと心配である。

さて。

この人、実家は東京だが大学は関西方面だった。

こっちに戻ってきてからは、就職難民に加え 色々 色々 あったみたいで、大変そうだった。
…とくに人間関係においての苦悩が多かった。

ちなみにこの人とはブログから知り合った関係。

実際にも2~3度会ったことがある。
飄々として知性があってユーモアもあって、どちらかというと他者の印象に残る魅力的な人だった。

それなのに、なぜかこの人のブログは自己卑下と贖罪と虚像と虚構と道化が乱立していて、
それが私には不思議でならなかった。
この人が自分をどうしたいのか、解りかねた。

ブログでは自身を呪い他者との関わりを拒絶しながら、実際には色々な人と関わりを持っていた…無論、男女の関係もそれなりに持っていたみたいだ。

なのにブログでは自己批判してみたり自己弁護してみたり…当時少しだけ介入してしまった私は、その言動の差に、実は、かなり悩まされた。


今になって、なんとなく分かってきたことがある。


この人は「そのままの僕」を受け入れて欲しかったんだ。


多分…第一印象や数多の言動が矛盾している感も含め、
不安定な社会的立場の現状打破とその現実、思い描く将来像とその現実、理想的な人間関係構築とその現実、私生活の現実…

これらがこの人のイメージを思わぬ方向へ作り上げたのかもしれない。

もがき苦しんでいるブログの内容は矛盾ではなく、全てが「彼そのもの」だったのだろう。

「僕は僕のままでいていいんだよ」と、誰かにその存在意義を認めて欲しかったのだろう。


有名な大学を出て博士号を取っても、それを社会に活かせる術が無く、
兄弟と比較され同年代と比較され、
焦って焦って、でも全て空回りして、
「社会に受け入れられない」ことや「社会的立場が無い」ことが後ろめたさになって、
「自身の必要性」を喪失してしまった。

この人と深く関わった人たちが、彼に何を言ったのかどう接したのか、具体的なことは解らない。

でもあのブログは泣いていた。
助けを求めていた。
「ありのままの僕を受け入れて」と空虚なネット空間に向けて叫び続けていた。



あの時には戻れないが

あの時の彼に伝えたい言葉がある。

もう届かないだろうけど、ずっとずっと伝えたかった言葉。



「キミはキミのあるがまま、でいいんだよ」


「どんなキミもひっくるめてそれがキミ自身であり、そのキミを、私はまるごと受けとめているよ」




…小さな僕、泣かないで。
少年は「ひかる石」の伝説を信じていた。
…どんな石なのかは誰も知らない。「ひかる」ということだけ。

少年は、持ちうる限りの知識と記憶から「ひかる石」をイメージし

「ボクは見つける」
ある日、独り言のようにそう決意した。
それは
世界は彼を中心にまわっている…と信じていた頃のこと。

しかし「ひかる石」は見つからない。

少年はやがて青年になり疑惑を覚えた。
それは
自分は世界の歯車のひとつにすぎない…と思い始めた頃のこと。

青年期の誘惑は彼を成長させてはくれたが、それは「少年の喪失」でもあった。

日々のささやかな出来事達が、彼の周りを人工衛星のように飛び交っている。

いつしか青年は「ひかる石」の存在を忘れてしまった。

青年は、いまや全てが分かり切ったかのような年齢になりつつあった。
それは
世界は自分の周囲だけ…になってしまった頃だった。

なぜ彼は
「ひかる石」を諦めたのだろう
「ひかる石」を疑ったのであろう
「ひかる石」を忘れたのだろう

誰もが一度は求めるもの…彼も少年期に抱いたのに、
「社会」が人を変化させたのか…それは成長といえるのだろうか。
いつから、目に認めるものだけを「現実」と「真実」と捉えてしまうようになったのだろうか。


老年期も終焉に差し掛かった頃。

彼はとうとう「ひかる石」を見つけた。

探していたのではない…既に忘却の彼方にあったのだから。

それは幼少時のアルバムに…
それは小学校の文集に…
それは七夕のしおりに…

「ひかる石」は彼自身だった。
誰もがみな「ひかる石」だった。
最初は原石だけどいつしか「ひかる石」になれる。

しかしそれは本人次第だった。

時期は関係なかった。

いつでも「ひかる石」になるチャンスはあった。

「少年」が彼から離れていった時、石はひかる術を失った。

ただそれだけのことだった。




私のなかの「少年」は まだここに居るのだろうか

私の手のひらに 「ひかる石」はあるのだろうか
最初の一週間は長く感じた。
被災情報は時々刻々 甚大さ、深刻さを増していたし、ほぼ全てのマスメディアが震災報道を一日中流していた。

一週間経った先週金曜、震災の時刻に黙祷の様子がテレビに映し出された時、

ああ 一週間たったのか

…と、失いかけていた時間感覚をようやく取り戻した。

翌日から、民放の番組やCMに日常が戻ってきた。
それはまるで正月の松の内が明けたかのように、急激に日常へシフトしていった。
NHKですら 朝ドラをまとめて流すようになった。

違和感を感じた

被災地の人達は、一週間の区切りで日常に戻れるワケではない。
震災以降、どんどん過酷な避難生活になっているハズ。
原発事故が加わって更に孤立している被災者達も増えたハズ。
…被災地の天気は、寒気の戻りで雪や雨が続いていた。

この一週間は早く過ぎた。

遺体収容の数字が増えると同時に、遺体身元判明の数字も増えた。
いつのまにか一桁台まで言えるほどに正確な数値が出始めた。

そして、余震は続いているものの、首都圏は震災そのものの事柄よりも
放射線物質の問題、買い占めの問題などが話題の中心になった。

震災当初、何を投げ打ってでも被災地へ!…といった雰囲気は一掃され、
被災地にいない人々(私も含め)は、自分の生活の安心安全の確保を真っ先に意識するようになった。

たしかに原発事故による放射能漏れ事故は「見えない恐怖」である…それが首都圏内を余計パニックにさせた。

買い占めがまたもや再燃し、
被災地への支援どころか被災場所によっては、
人も物も全てを拒絶する事態まで起きてしまった。

たった二週間で、日本国内の感情はブレまくってしまった。

情報は溢れに溢れ 風評被害なるものへの注意を喚起されてはいるが、
何が正しくて何が風評かの区別はきちんと与えられず、
そのくせ情報だけは次々と増えていった。



ちまたでは「いま自分にできること」が、キャッチフレーズのようになっている。

しかし

義援金寄付したあとに買い占めに奔走しているとしたら、それは本末転倒だ。


本当に「いま自分にできること」とは


冷静さを取り戻すこと


なのではないだろうか?