やっぱり映画が好き -8ページ目

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

シェイクスピアと妻そして子供たちの家族模様を背景に戯曲「ハムレット」上演へ辿り着く過程を描く。妻アグネスを演じたジェシー・バックリーがアカデミー主演女優賞を受賞した。

 

クライマックスからラストに至る場面、"ここまで壮大な前振りだったのね" と思わせる畳み掛けが巧い。このワンイシューで堂々とやってのけるクロエ・ジャオ監督は、もしかしたら観客に対して "はずす" とか "伝わらない" なんて不安を(感じてるけど)跳ね除けてしまう。そんな彼女の強かさがヒシと伝わる。

 

だけど、エンディング曲の「On The Nature Of Daylight」

 

この曲はこれまでも「メッセージ」「ディス/コネクト」等多数の作品で使われている。まぁ名曲なので使いたいのは分かる。分かるけど、そこ勿体ないなぁ…と、エンドクレジットを目で追うと音楽担当がマックス・リヒターと記されている。ん?自分の曲やん、"使い回してるやんけ" とぼやいてしまう。なんか "ずるい" っちゅうか、"芸が無い" っちゅうか、たとえば坂本龍一は他の作品に自分の戦メリの曲使わないよ、他の音楽家しかり、うーむ、私、了見が狭いのか。

 

いや、そんなことない。と言いたい。この曲を既成曲として、第三者が "お気に入り" もしくは "その場面" や "作品テーマ" に適合するかたちで採用する。なら納得できる。現実にデヴィッド・ボウイの楽曲は様々な作品で使われている。ところがヒリターさん、これは既成曲でもあんたの曲であって、新たにオファーされた映画音楽を軽んじるような手前味噌っぷりに訝しむんだよ。

 

すまんのぉ、リヒターはん、愚痴っぽくなって。エエ曲なんやで。それは間違うてへん。…なんで横山たかしひろし調になるんやろ。シェイクスピアからどんどん遠ざかっていく。

 

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休業している女優サンウォン、ひとり暮らしの中年詩人ホン・ウィジュ、ふたりに接点は無いが、それぞれに若者が将来の進路相談を持ちかける。そんな一日が描かれる。

 

私たちは行動や目的に意味や意思が必要なのか、"なんとなく" や "思いつき" は間違っているのか。未知なる世界に飛び込むにもマニュアルが必須ならば、その時点で答え前提の模範演習の域を出ないのではないか。もっとおおらか、というかバカでいい。若者よ、こぢんまりとなるな。と、ダメ大人が忠言する。

 

現代は情報化社会、膨大な量を消化するにはタイパ・コスパが重視される。ってな基準は本当に "良し" なのか。その果てに結果ありきの行動指針へと向かい、それにそぐわない人は "負け組" の烙印を押される。その "勝ち負け" はどの時点で判断するの?成功していくらお金稼いでも家庭不和だったら幸せとは感じないし、生活が困窮しても互いに助け合う家族がいれば心和やかになるはず。だから結果なんて安易にジャッジ出来ない。差し当たってゴールは、いわば終点である死なのだから、答えはなんだろうね、という具合で模索すればいいし、何もしなくてボーっとしててもいい。結果見つかりませんでした。というアンサーだって "良し" なのだ。

 

成果や結果、これを自己承認欲求の産物として理解するなら、周囲を気にしてどうなる、気にするから安全パイに囚われてしまい、そのカテゴリに固執してしまう。ホン・サンス監督の作家性にも通じる "既成概念からの解放" は今作ではより色濃く描かれている。やってはダメ、と言われるとやってしまいたくなる。それって私たちは "あるある" として共感できる。やるか、やらないか。やらないをやるか。こう書くと混乱するかな。してもいい。結論は無い。それがホン・サンス監督の魅力であるのよ。

 

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若き妊娠女性を支援する施設で共同生活する当事者たち葛藤を描く。自身を見捨てた母親に会いに行く身重の女性、彼氏がなかなか稚児を認知しないので焦る女性、すぐに暴力を振るう母親に憤る女性、薬物依存から抜け出そうとする女性、彼女たちは現在の苦境から一歩でも前進しようと懸命になる。円満な家庭は絵空事なのか、それとも自己責任なのか、社会のあり方が物語の背景から浮かび上がってくる。

 

なぜ彼女たちは小さな命を育む幸せを享受できないのか。育児をメンタル疲弊を伴う重責だと思い込ませて誰が喜ぶのだろう。恵まれない若き母親は弱者であり、さらなる弱者・無垢な赤ん坊に決して重圧をかけてはならぬ。かけたとしても母親の自己責任ではなく、より恵まれている人びとが救いの手を差し伸べるシステムが望まれる。この救済を主導するのは行政の役割である。日本のように子ども食堂を行政が奨励するのは滑稽極まりない。

 

ダルデンヌ兄弟監督は一貫して社会の弱者に寄り添う姿勢で物語を構築する。今作は群像劇、参考にしたのは溝口健二監督の「赤線地帯」なるほど、ひとつのコミュニティとして売春宿と支援施設、似ている境遇の女性が出入りする設定は共通している。古今東西問わず弱者への眼差しを大切にしたい。すぐさま誹謗中傷、ヘイトそして紛争に向かう愚劣な行動には抗っていく。その先に自由がある。自由とは何をしてもいいという免罪符や苦労から解放される特権ではない。たゆまぬ努力の表れである。彼女たちの姿からその意思がひしと伝わる。

 

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