「エンパイア・オブ・ライト」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

1980年代、イギリスの海に臨む町に映画館エンパイア劇場が佇む。そこで織り成す人々の悩みは時代性よりも出会いと別離という時間の通過点へと刻まれていく。

 

主演オリヴィア・コールマン、撮影ロジャー・ディーキンスの功績だけでも鑑賞する価値はある。主人公ヒラリー(オリヴィア・コールマン)の化粧の変貌が彼女の心情を反映しており、なるほどそういう意味だったのかと映像表現として納得する。それに伴う表情の変化を惜しみなく披露する演技はオリヴィア・コールマンの真骨頂であろう。

 

ただ物語のつながりが悪く、時折戸惑う。黒人青年スティーヴンは何故入室厳禁エリアの映写室に足を踏み入れることが許されたのか、ヒラリーの自宅からうかがえる彼女の生活事情、浜辺のデートでのヒラリーの発狂、プレミア上映会後のエンパイア劇場の経営状況、何かしらの補足エピソードが欲しくなる。サム・メンデス監督は押してるツボを心得ているんだけど、指圧が足りない。尺の問題でカットされてしまったのか否か知る由もないが、ラストの詩の朗読も無難過ぎて物足りない。

 

今作の主題のひとつが、映画と人生、それぞれが記録であり記憶である。私が存在する記録は偉大な功績を残さない限り残されないのか。それはおかしい、そもそも記録ありきで私たちは生きているのではない。承認欲求には功罪がある。私たちが記憶する範疇は非常に狭小であり、知らない世界があるからこそ好奇心は尽きないし、忘れゆく過去があるからこそ現在という瞬間を大切にする。ヒラリーがエンパイア劇場で観る映画「チャンス」の主人公は功績や名声に無頓着な人物であり、ヒラリーはそこで何を感じ取るのか、そこが焦点となる。

 

映画は記録媒体のひとつの形態であるが、鑑賞する観客の記憶や他者と共有する(感想や評価の)言葉として作品は成立する。上映するフィルムだけでは作品は未完成であり、記憶(鑑賞)する現在や未来の人々の存在によって作品は成立する。だが個人が記憶する作品も永劫ではなく、時を経て忘れゆく自分も内包する世界だけが持続する。変わらないようで変わっている。私たちは映画を鑑賞する時間と場所によって同じ作品なのに違う印象を抱く。その淡く不確かな、でも尖っていて心揺さぶる、なんとも形容できぬ体感、映画の魅力はそこにある。時代を経ても鎮座する映画館、エンパイア劇場は私たちの記憶の中で共有できる。

 

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