「コーダ あいのうた」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

主人公の少女ルビーは耳に障碍を持つ両親そして兄と共に暮らす。代々漁業を営んでいる家族は唯一の健常者ルビーを頼りに早朝から船を出す。とっさの判断で高校の合唱クラスを選択したルビーは大学進学という将来に思い悩む。それは家族と離れざるを得ない分水嶺となる…

 

最近報道でも見聞きするヤングケアラーという言葉はルビーにも当てはまる。しかし行政の手助けは及ばない。そんな施しを当てにしない父親と兄は生計を立てるため懸命に働く。あらねばならぬという気概はいつしか第三者との通訳を任されるルビーの自由を束縛してしまう。サポートを必然と求める親、障碍者である親を見捨てることは倫理に反すると自粛する娘、誰が悪いという観点ではなく、共に喜び、口論し、妥協ということでしか帰着できないもどかしさをそれぞれが背負っている。弱者だと認めたくない家族一人ひとりの心情に寄り添うことをシアン・ヘダー監督は巧みに演出する。場面ごとに誰が何を悩んでいるのか、そのベクトルがブレずに表現できている。

 

肝はクライマックスの合唱発表会。ここで父親は気付く、自身が見ていた世界の小ささに、そしてルビーが見ている世界を矮小させていたことがわかる。物語のカタルシスはこの "気付き" や "変化" に起きる。自省を含めた "その後" を語るところにドラマの重要性がある。ここぞとばかり "そこ" を押さえた構成が上手い。

 

欲言うならば、ルビーと好意を抱く同級生マイルズがルビーの自室でデュエットの練習を始める場面、音楽が主題の割に盛り上がりが乏しい。すぐさま下ネタで笑いを取るのは勿体無い。本来ならここに至るまでにマイルズの家庭事情を前フリしておくべきだろう、彼の背景がイマイチ分からなかったので二人の心情が音楽へと導いていない。「シング・ストリート未来へのうた」のジョン・カーニー監督は "そこ" をキッチリ押さえてくる。ここでこうなってそうなる "演繹的" 演出を音楽を奏でながら映像表現してくれる。

 

マイルズ役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロは「シング・ストリート…」主役の青年。元気しとったかい、と近所のおっちゃんみたいに声かけたくなる。それにしてもなんで最初の場面でキングクリムゾン「ディシプリン」のTシャツ着とったんや?これはルビーのお気に入りバンド、シャッグスのレコードが彼女の部屋で登場するので、プログレッシブバンドのキングクリムゾンとの対極からルビーとマイルズの家庭環境の隠喩(かたやヘタウマ、かたや卓越した器量)なのだろう、きっと、それしかないよね、考えすぎかな、うーむ、細かすぎて伝わらない。

 

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