「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

ファンサービス大放出いろんなもんてんこ盛りの完結編。前作で正体がバレてしまったピーター・パーカーはプライバシーを悉く毀損されてしまい、断腸の思いでドクター・ストレンジに無理な願いを申し出る…

以降、ほんのりネタバレしますので未見の方はご遠慮ください。

 

先述通り、登場人物もテーマもいろんなもん詰め込んでくる。登場キャラを取り上げると感慨深くなってしまうので、ここではテーマについて述懐します。

 

ピーター・パーカーという青年の成長物語としてスパイダーマンは活躍する。今回、彼はヴィラン(悪役)を退治しない。"成敗" ではなく "更生" を促す。前作「…ファー・フロム・ホーム」において敵対したミステリオが命を落とした事への自省が起因となる。だが未熟なピーターは相手の暴挙によって親族者の死という犠牲を払う。自身の善行が伝わらない、ピーターは感情にのまれて復讐心に燃えてしまう。そんな平常心を失ったピーターを止めるのは "成長したピーター" である。"彼" は過去に復讐へと駆り立てた親友と対決したのだ。若きピーターを救いたい。ここで復讐へのアンチテーゼ、そして私刑に対する疑念、"許し" という行動の大切さを物語っている。ただ "更生" を促す手段が "治療薬" というケミカル系に依存してしまうのがアメリカらしいといえばアメリカらしい。(娯楽作品におけるわかりやすさの映像表現という解釈もあるが)

 

前々作「…ホームカミング」でピーターはアベンジャーズ加入を志願する若者だった。彼も市井の人々同様、"承認欲求" で行動していた。しかし今作のラストで彼は "承認欲求" で溢れる現代社会を訝って "覆面" を選択する。これでいい、100点満点の答えじゃないけどピーターは成長する。社会は変わらずともスパイダーマンは "親愛なる隣人" として、どこかで誰かを助ける善行に勤しむ。その姿が清々しい。

 

今回の騒動は "承認欲求" が仇となって私生活が苛まれる事態が発端である。だからといって魔術に頼る行為を許されない驕りだと断じる。タラレバは万が一でも通用しない。人々は己の行動や環境に一喜一憂しながら少しずつ成長する。いくらでもリセットが効くタラレバはとどのつまり逃避手段であって成長はあり得ない。人々は失敗して悩み考えて自身を変えていく。変わることで物事がわかる、理解する。

 

この物語が描く "素晴らしき世界" とは悪事を働いた当人を排除するのではなく、その人を取り巻く環境・社会に潜む問題を指摘して改善する尽力にある。加害者は社会から疎まれた過去を背負っている。ならば疎外した社会を看過して個人を断罪に処しても何も解決しない。違う場所で轍を踏むだけである。ゆえにピーター・パーカーは "救済" を優先する。ものすごく小さな修復をひとつひとつ実行していく。ならばそれを彼ひとりに任せるのではなく、私たちが共に助け合う。それが次第に "大いなる力" となり、私たち一人ひとりが "大いなる責任" を伴えば "素晴らしき世界" へと変わる。

 

これだけのテーマをぎゅうぎゅう詰めにして矢継ぎ早に進行するので、クラブミュージックで例えると、早いBPMで踊りまくる感じで鑑賞後めちゃ疲れてしまう。とにかく考えるな感じろってな具合。これは私が高齢である証左なのか、じっくり描くと長尺になってしまうので無理くり編集した結果なのか知る由もないが、とにかくお疲れさんでした。

スパイダーマン好きのひとりとして次に期待する「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」このハンパない浮遊感がいいよね。スクリーンで見なおもんないやつ。見ずに死ねるか。

 

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