「由宇子の天秤」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

真相は必ずしも曝け出さなければ罪なのか。真実を追及する正義が、他者の私生活を踏みにじる暴力へと転化してしまう。護られるべき人々に無関心な社会にどう対処すべきなのか、そこで発動する "嘘" そして "沈黙" 。この主題には身につまされる。

 

撮影と編集が上手い。狭い空間を追いかけていくカメラは、ドキュメンタリー作品を手掛ける主人公・由宇子自身が被写体となる実録映像のメタ化となり、"虚構と現実" という映画と観客の境界を "偽りと真実" という由宇子自身の当惑へとスライドしていく。さらに物語における "リズムの心地よさ" と "主題の不快さ" の不均衡が、編集によって構築されている。場面カットを切るタイミングが("由宇子の天秤"の)作り手による判断と劇中の事件の関係者に迫る由宇子の思惑と重なっては離れていく。

 

 

ここからネタバレあります。

由宇子はスマホカメラを要所で撮り始める。被写体は、

・由宇子の父親

・由宇子と共に仕事をするプロデューサー

・由宇子本人

業務用カメラではなく、プライベートのレンズを通して被写体を覗く撮影者は容赦ない追及を臨んでいく。嘘もしくは沈黙で誤魔化すことへの断罪を余儀無くさせる。記録として残る言葉や表情が倫理という重圧に耐えきれなくなる。あの小さなレンズに出口が見えない抑圧が内在する。ここで主題のひとつとなる "正義という名の暴力" が露わになる。

 

鑑賞後、二つの行動にわだかまりが残る。

・由宇子が塾生の萌(めい)に嘘をついたと問いただす場面。

・萌の父親が由宇子の首を絞めて立ち去った場面。

それまで描かれていた由宇子と萌の父親の心情に寄せていた観客は裏切られてしまう。この行動が理解できない。

 

・由宇子が塾生の萌(めい)に嘘をついたと問いただす場面。

由宇子はその直前に取材している事件に関係する自死した教師の姉・志帆に会う。志帆はこれまで重ねてきた嘘を告白する。だが由宇子はその真相を隠蔽する。規範にそぐわないが、志帆の私生活をこれ以上崩壊させない、守りたいという人情を選択する。ならば、萌に対して疑念を抱く由宇子は何故真相へと足を踏み入れるのか、ドキュメンタリー作品のディレクターとして、思春期の学生を慮る塾の講師として、あまりに軽率すぎる。"裏切られた失望" よりも "偽った信用" に黙認するのが由宇子が取るべき行動ではなかろうか。

 

・萌の父親が由宇子の首を絞めて立ち去った場面。

萌の父親は確かにキレやすい言動を伏線として提示している。しかし彼は小心者であることも表現している。(滞納していたガス料金を立て替えてくれた由宇子に急いで返金する等)ならば、萌の裏の顔でショックを受けた直後に、由宇子の意を決した告白で彼女に責任を転嫁するような暴挙で出るだろうか、甘んじて由宇子の首に手をかけたとしても途中で断念、もしくは自省するだろうし、倒れた彼女を放置しないだろう。萌の父親は社会にうまく適合できないだけであって常軌を逸した性格ではない。

 

これが "人間の心の弱さ" だと反論されると元も子もないが、肝心のテーマが放置されたまま終幕する。この物語を通して正義というあやふやで脆い信念を撹乱させて、アンサーを観客にそのまま預けてしまうのはもどかしい。

 

このしこりが残るも春本雄二郎監督の力量に注目、次回作が見たくなる。萌役の河合優実とその父親役の梅田誠弘の演技も印象深い。これからも良い作品に出演してほしいね。ん?真面目なコメントで締めくくるの?もしや私が被写体?カメラ回ってないよ、いつの間にか覗かれてる?どういうこと?しょうゆうこと。

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