『本日の特集はいよいよ来週にまで迫ってきたバレンタイン! 町で人気の銘菓名店を訪れたお客さんたちにインタビューしたいと思いま~す。あ、こちらが噂の特選バレンタインチョコセットですね! お味はどうですか?』
『ふむ。今年のチョコレートも絶品だな。口に含んだ途端溶け拡がる甘さ、そして仄かに残るほろ苦さ。これはプレゼントに最適だろう。私もあと十数年若ければ意中の男に贈りたいものだ。どんな男でもこのチョコレートを食べれば私にメロメロだな。って何故だあああああああっ!!!!』
なんだかよくわからない特集を垂れ流すワイドショー。やっぱりこんなものを見ても無駄ね、と緩慢な仕草でリモコンを操作しテレビを消す。
詰まりに詰まった膨大な予定の合間、不意に空いた時間。
このところの多忙さを思えばこの時間は貴重だ。あと数時間もすればまた聖女としての激務が待っている。僅かに出来た好きに使える時間、しかし特別何かやりたいことがあるわけでもなく。瑚太朗がいれば何か時間の潰し様もあっただろうけれど、彼は仕事で外に出ている。一人きりで暇を持て余す。そんな私が選んだのはテレビを点けることだった。
選択の理由はなんとなく眺めていた新聞の番組表の中で目に留まったある単語。
それは普段の私なら一瞬も気に留めることなく流したであろうもの。
自由な時間、無為に過ごすならそれもまた良し。だけれども、何故よりにもよって私はこんなものを気に架けているのだろう。
……バレンタイン、なんて。
これまでの私の人生において一切気に架けたことのないイベント。そんな機会はなかったし、色恋に浮かれることには忌々しい記憶もある。バレンタインに想いを馳せることなど永遠にないだろうと思っていたのに。
小さく溜息を吐きながら、私にそれを意識させる元凶に目を落とす。
それは通信販売のカタログ。先程のワイドショーで特集されていた店が取り扱っているもの。
つまり、チョコレートのカタログだ。
それはこうして休憩に入る前のこと。
「――では、報告は以上です。時間になったら呼びますので」
「ええ。分かったわ」
「ああ、それからこちらを」
去り際に津久野が一冊の本を差し出してきた。それほど厚いものではなく、見たところ何かのカタログのようだった。
「これは?」
「カタログです」
「それは見れば分かるけど」
「バレンタインチョコレートのカタログです」
「バレンタイン?」
「はい、バレンタイン」
あまりにも脈絡のない答えに言葉が出ない。
「…………」
「…………」
無言で続きを待つが津久野は表情一つ変えず黙ったまま。堪えきれず口を開く。
「……それで? それをどうしろと?」
「天王寺さんに差し上げてはいかがですか」
「瑚太朗に? 何故?」
「何故って……そういうものでしょう?」
「そういうものって……」
バレンタイン。女性が親しい人……特に恋人にチョコを贈る日。日本で言うバレンタインはそういうものだ。
恋人にチョコを贈る日。
今まで恋人も親しい友人もいなかった私にはいまいち馴染みのないイベント。
恋人。
ふむ。
そういうものと……言えなくもない?
「いや何を言っているの。今そんなことに現を抜かしていられる時期ではないのは分かっているでしょう」
「問題ありません。その店はマーテル系列でして、そのカタログは本部職員向けに頂いたものです。商品を指定しておいていただければ後でまとめて注文しておきます。たいした手間ではないでしょう」
「そういう問題では……待って、それでは私がチョコを頼んだと皆にばれてしまうじゃない。この重要な時期に聖女がバレンタインなんて示しがつかないわ」
「そこは上手くやっておきます」
「どうしてそこまで……」
「……天王寺さんが言っていましたよ。『最近朱音さんとプライベートで過ごせなくて寂しい』と」
「瑚太朗がそんなことを?」
「正確には『最近朱音さん仕事ばかりであまり休めていないから心配だな』ですが」
「全然違うじゃない!」
「ニュアンスです。男は直接『寂しい』などとは言えないもの。自分の恋しさは外に出さず心配という形で表現するのが男心というものです」
「おまえが男心の何を知っているというの……」
「天王寺さんは分かり易いですからね」
「……まあ、それには同意するけれど」
「ともかく。見るだけでも良いので。注文があれば後ほど言ってください」
「ちょっ」
有無を言わさない勢いでカタログを押し付けて、津久野は部屋を去る。
「まったく……」
昔からおせっかいな所があるとは思っていたけど。津久野がこんな風に気をまわすとは。
瑚太朗の存在が少なからず影響を与えているとでも言うのだろうか。
……まあ、それはともかく。
「バレンタイン、ね……」
ぼんやりと目を通しながらカタログを捲る。有名店だけあってラインナップはしっかりしている。なるほどプレゼント選びには最適だろう。
瑚太朗はどんなチョコが好きだろうか。
甘いものは嫌いではないだろうか。そんな風な素振りはなかったと思うけれど。
なんとなく瑚太朗は高級感に弱そうな気がする。普段の瑚太朗では手が出せないようなセレブチョコを渡してみたらどんな顔をするだろ
う。
それとも質より量か。瑚太朗の仕事は体力勝負なのだし、仕事の合間に食べられるような小粒のものをまとめて贈るのもいい。
あるいは……手作りか。
却下。チョコを作る時間なんて取れる筈はないし、瑚太朗に隠れて作るのも難しい。
それでは……
「って待て。どうしてチョコを渡すという流れで思考が進んでいるの」
あまりにも自然な流れでしばらく気が付かなかった。
これは津久野の罠か。あなどれない。
自分で言ったように今は大事な時期なのだ。余計なことに意識を割く余裕はない。こんなバレンタインごときで浮ついていていいわけがない。
だからそう、チョコなんて渡さなくていい……
「…………まあ、今は暇なのだし」
そう、別に渡すチョコを選んでいるわけじゃない。ただの暇つぶしにカタログを眺めているだけだ。
瑚太朗の好みなんて考えていないし。
チョコを渡したら瑚太朗はどんな反応をするだろうかなんて考えていないし。
飼い主にご褒美を貰った子犬のように喜ぶ瑚太朗を想像してにやついているわけもない。
これは暇つぶし暇つぶし。
「…………」
まあ、選ぶくらいならいいか。
選ぶだけ。選ぶだけだ。瑚太朗が喜びそうなのはどれかと考えてみるだけ。指向性を持たせた方が暇つぶしも捗るし。
さあ暇つぶし暇つぶし。
「……………………」
ダメだ。どう考えても浮かれている。愚かしい。
バレンタインなんてお菓子会社の商業戦略。
浮ついたバカップル共が楽しむイベント。
馬鹿馬鹿しい。
私がそんなものに溺れるわけにはいかない。
だからそう、これはバレンタインチョコじゃない。瑚太朗は仕事をよくやってくれているし、その労をねぎらうご褒美をあげてみるだけだ。
私は浮ついてなんかいないし。チョコを選ぶことも別におかしいことじゃない。
これでよし。
さて、それでは選びましょう。
瑚太朗はどんなチョコなら喜ぶだろうか――――
――――結局の所。認めたくないけれど。私は浮かれていたのだろう。
まるで普通の女の子みたいに。
まるで普通の恋愛のように。
バレンタインというなんでもない小さなイベントに、心躍らせていたのだろう。
そんなものを、手に出来るはずがないのに。
そして、2月14日。バレンタインデイ。
視界はあかい色に染まった。
「――――男の身元にそれらしい点は見当たらず、動機も不明。警察の取調べにも応じていないようです」
「そう。まあ裏に誰かがいたとしても、あんな目立つ形で襲わせたのだからそう簡単に足がつくようなことはしていないでしょうね」
「私たちも油断していました。まさかあんな往来で……」
「まったくよ。とにかく状況は分かったわ。後は任せるから動きがあれば教えて頂戴」
「分かりました。それでは失礼します」
退出する津久野を見送った後、ソファで休んでいた瑚太朗へと顔を向ける。
「それで、大丈夫なの? 瑚太朗」
「あー、全然平気ですよ。かすった程度だし」
「それにしては出血が酷かったようだけど」
「ちょっと当たったところが悪かっただけですって。あの程度のチンピラにやられたりしませんから」
「……そう。ならいいのだけど」
「朱音さん、今日はえらく心配性ですね?」
「…………」
「これが俺の仕事なんだから。朱音さんはどっしり構えといてくださいよ。むしろ怪我するようなヘマするなって言ってもいいぐらいだし」
「…………ええ、そうね」
「……朱音さん?」
そう。何も特別なことはない。瑚太朗の仕事はこういうときのためにあるのだし、瑚太朗はそれを全うしただけだ。怪我をさせた以外は何も問題はなくて、こんな風に動揺する必要はどこにもない。
ただ、暴漢が取り出した刃物が瑚太朗を傷付けたあの瞬間。
本当に肝が冷えたのだ。頭の中が真っ白になった。
何故? 今日の襲撃など瑚太朗の言うようにたいしたものでもない。珍しくもないことと処理してしまえること。
考えていたからだ。あの時、考えてしまっていたからだ。
どのように言って瑚太朗にチョコを渡そうか、なんてことを。
まるで平和な普通の女の子のように。
そんなことが許される筈がないと頭の中で誰かが囁いた。
私たちは普通ではない。普通にはなれない。それを忘れてはいけないのだ。
「…………ご苦労様。今日はもう休んでいいわ」
ふと机の上に置いてある小さな箱に目が留まる。今朝津久野が瑚太朗の目を盗んで持ってきた、ラッピングされたチョコレート。
もう渡す気にはなれなかった。
できるだけ自然に手に取り、ごみ箱へ放ろうとする。けれど。
「朱音さん、それなんです?」
こんなときばかり目敏い。
「なんでもないわ」
「なんでもないってことないでしょ」
「なんでもないのよ。どうしてそう食い下がるの」
「んー。今朝津久野さんに会ったとき、それと似たようなやつを持ってたんですよ。それ、本部でまとめて注文してたバレンタインチョコでしょ。誰かに渡すのか聞いたら誰にも渡さないって言うし。じゃー何で持ってるのかって話で。そしたら朱音さんとこに持ってきてて。これはもうそういうことだろう、と。俺の自惚れじゃなければですけど」
津久野!
目を盗めていないじゃない!
一番隠すべき相手に隠せていないじゃない!
「そうおまえの自惚れよ」
「いやいや。そんな恥ずかしがらなくても」
「恥ずかしがってなどいない! いいのよこれはもう」
「何がいいってんですか」
「バレンタインなどに浮かれているわけにはいかないということよ」
「いいじゃないですかそれぐらい。せっかく用意してくれたんだし」
「……そこまで言うのなら持っていきなさい。ただしそれはバレンタインチョコでもなんでもないわよ。ただの余り物」
「なんでそこまで……」
呆れた、という表情で瑚太朗が立ち上がり私の前まで歩いてくる。
「どうせならバレンタインチョコとしてもらいたいんですけどね」
私だって。どうせならそのように贈りたいと思わなくもなかった。
「それは出来ないわ」
「どうして」
「……バレンタインなんてものは普通のカップルがやるものでしょう」
「はあ」
「私たちは普通のカップルではない。だからバレンタインはやらない。以上」
「………………はあ?」
要領を得ないという顔で瑚太朗が首をかしげる。
「言ってる意味がよく分からないんですけど」
「ああ、もう……」
そんな瑚太朗から目をそらし俯く。
困る。今更な話ではあるけれど、どうして瑚太朗はこんなにしつこいのか。
端から今日はもう余裕がないのだ。余計なことまで言ってしまいそうになる。
「私達は恋愛しているわけじゃない。そういうこと」
「……はあ?」
ずっと言うつもりではなかった。
こんな、今の関係を壊してしまうようなことは。
「あー……今なんかショックなこと言われたような」
「間違ってはいないでしょう。おまえが私の傍にいるのは」
それでも言葉にしておかなければ。私が忘れてしまいそうになる。
「縋れたのが私だけだった……ただそれだけ」
オカ研が崩壊してからの瑚太朗の行動はある程度だが知っている。見ていられなかった。だからあんなメールにも反応してしまった。
瑚太朗は、目の前にあったのが私の手だったから私の手を掴んだだけ。
「もしおまえが最初に再会できたのが他の者なら……おまえはその者についていったでしょう?」
あれからいろいろなものを背負わせてしまったけれど。
このはじまりは変わらない。
「そんな風に始まった関係を、恋愛とは呼べない」
お互いに縋り付き合っているだけの関係で。
「バレンタイン、なんて無邪気に浮かれられない」
だからもうこの話は終わり。
「分かったら……っ!?」
不意にチョコを持っていた腕を掴まれる。顔を上げると目と鼻の先に寄せられた瑚太朗の顔。
「ちょっと、何を……」
「ふざけんな!」
至近距離で怒鳴られて思わず怯みかける。なけなしの気丈さで堪えて、目の前の顔を睨み返す。
「何か文句が?」
「ありますよそりゃ! 恋愛じゃない? 朱音さんについてきたのはたまたま? 勝手に人の気持ち決めつけんな!」
「ちょっと、唾を飛ばさないで……」
「……はあ。朱音さん、俺が誰でも良かったみたいに言いますけどね。例えばですよ、もし俺の前に現れたのがどこかのOL浜田みち子さんだったとしてですね」
「誰よ、浜田みち子って」
「どこかの誰かさんですよ。で、その浜田みち子さんに俺は付いていくと思いますか?」
「………………」
「誰でもいい、で命まで掛けられるもんか。俺はあんたに惚れたから、今ここにいるんですよ」
「…………だけど」
「それから。さっきの話、俺の事情だけでしたよね。朱音さんはどうなんです」
「私?」
「朱音さんは誰でも良かったんですか? 今ここにいるのが俺じゃなくても?」
「………………」
別に。そもそも瑚太朗を付き人にしたのは特例であって、瑚太朗がいなければそれまで通りにやっていただけ。
いいえ、そういう話ではない。
果たして。
私は、瑚太朗以外の人間を、瑚太朗ほどに近くに置くことをしただろうか?
「………………それは、違うわ」
そんなことは、ない。
思い出す。
加島が死んだあの日。
瑚太朗でなければ、私は縋りついたりなどしなかった。
「もう一度言いますよ。俺は朱音さんを愛してる。朱音さんは?」
「…………私は」
そんな問いかけ。
返せる答えは一つしかない。
「……私も、そうだわ」
「んじゃあ何も問題ない。充分立派に恋愛してますよ俺たち」
……でも。
「きっかけなんて関係ない。今好きなんだからそれでいい。そんな恋愛でいいんですよ、俺は」
私は……
「朱音さん変なとこ気にしすぎなんすよ。難しいこと考えなくていい。大事なのは好きってことだけなんですから」
「……直球ね」
「朱音さん偏屈だから。はっきり言わなきゃ伝わらないし、はっきり言っても伝わらないし」
「そんなこと……」
「ある。で、どうするんですか、それ」
瑚太朗がチョコレートを指差す。
どうするのか。
渡すのか。渡さないのか。
「……そうね。瑚太朗の言う通り。深く考える必要はないのかもしれない」
チョコレートのラッピングを解き箱を開ける。
選んだのは一口サイズのチョコレートの詰め合わせ。
机の上を滑らせて、その箱を瑚太朗に差し出す。
「受け取ってもらえる? 私からの……バレンタインチョコレート」
「もちろん。嬉しいっす。朱音さん」
瑚太朗がチョコを一つ摘み口へ運ぶ。
旨い、とほころぶ顔を見て、私は嬉しく思った。
ああ、この感情を恋と呼んでもいいのなら。これは確かに恋愛なのだろう。
普通のカップルとは程遠い、不純物を抱えすぎた私達でも。こんな日ぐらいは、ただのカップルとして楽しんでもいいのかもしれない。
「お、やっと笑ってくれた」
「え?」
「俺が怪我してからずっと朱音さんむっつりしてたから。その説は心配かけちゃってすいませんでした」
「いえ、いいのよそれは……」
「だから、これは俺からのお詫びってことで」
瑚太朗はチョコを一つ摘むと、私の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
「っ……そのチョコはおまえに贈ったものなのだから、おまえが全て食べなさい」
「俺が貰ったものなんだから俺が好きにしていいでしょ。ほら、あーん」
「……調子に乗りおって……」
こうやってすぐに調子に乗るところはそのうち矯正しておかないといけない。
けれどまあ、今日の所は許しておいてあげましょう。
別に、断じて、こうされることが嬉しいなんて思ってはいないけれど。
「………………っ」
意を決して、差し出されたチョコを口にする。口の中に拡がる甘ったるさ。
「じゃ、もう一つ」
私が食べ終えたのを見て、瑚太朗は新しいチョコを差し出してくる。その手に口を寄せると、素早く引っ込む瑚太朗の手。
そして瑚太朗はそのチョコを自分の口へ放り込む。
「こたろ……っ!」
悪戯なんかして、と抗議することはできなかった。
ああ、もう、まったく。
――甘い。
――私の口に運ばれたのは。
――甘い、甘い、チョコレート。