百名城・飫肥城に到着。
広い無料の駐車場。
百名城は、さすがに地元以外の車のナンバーが多い。
失礼なごら、私も今回の旅で、初めて“飫肥城”の存在を知った。超有名な、熊本城とかは知っていても、百名城に選ばれたことで、知らなかった方たちも、訪れることが多いのではないかなと思った。
百名城、この取り組みの意義は、こんなところにあるのかな。
案内所では、百名城のスタンプを押印できる資料館以外の施設も回れるチケットを勧められたが、時間の関係で遠慮した。
資料館への道筋を丁寧に教えていただいた。
大手門に続く道。
立派な大手門。
中から。
歴史資料館。
小さな歴史資料館だが、入ると音声案内が流れ、一気に過去にタイムスリップさせてくれる。
飫肥城・伊東家の隆盛についての解説が面白かった。
外様の伊東家が政治的に、どのような苦労があったのか?隣の大藩・島津家との確執も面白かった。
小藩ながら、沢山の家臣を抱えた伊東家が、財政的にどのような藩の経営をしたのか?それは山林経営だった。飫肥杉としてのブランドを確立。今も、山々が林業として成り立っているのが、道の駅酒谷周辺を走ってわかった。
これは飫肥小学校。お城の中にある小学校。飫肥は、教育にも力を入れたそうだ。
大手門の通りに、小村寿太郎記念館があった。明治時代、外交で活躍した人物。教科書で必ず習う。こんな人物を輩出する基盤が、江戸時代に作られた。
城内に植林とされた杉を眺めながら、駐車場に戻った。
一つ疑問があった。外様の伊東家、島津家とは、戦ったのに、何故外様?
案内所で尋ねた。わからなかった。
ネットを観ると、
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵が大坂で病を得ていたため、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃、事無きを得た。元和3年(1617年)、2代将軍・徳川秀忠より飫肥藩5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。以後廃藩置県まで一貫して14代にわたり伊東氏が飫肥藩主を務める。(ウィキペディアより)
案内所の方にもご報告した。
スッキリして、飫肥城をあとにして、道の駅なんごうに向かった。