今回は私が読んだ訳本の現代語訳がおかしかったので、立て続けにピックアップしてしまい
ま した。
1907・如是有者 何如殖兼 山振乃 止時喪哭 戀良苦念者
かくあれば いかにうゑけむ やまぶきの やむときもなく こふらくもへば
訳:このように(恋して)いるけれど どうして植えた(恋した)のだろう
山吹(思いを遂げられない彼女)を 何時までも飽きることなく
恋い慕っているけれど
**「何如」は「如何」の転で「いかに:どうして、なぜ、どのように」。
「植(う)ゑ」は「(植う:しっかりと根を張らせる)の連用形」でこの詩の場合、
自分が深く彼女を想い慕っていることの喩え」。
兼明親王の詠んだ「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき」
は後世の詩ですが、「実のならない美しい花」(叶わない美人)という山吹のイメージは、
この時代にも在ったのでしょうか《尚、「実:み」の解釈はいろいろあると思います》
*思いを遂げる事が出来ないことは判っているけど、でも好きでたまらないこの気持ち、
判ってくれるかなあ
寄霜
1908・春去者 水草之上爾 置霜之 消乍毛我者 戀渡鴨
はるさらば みくさしうへに おくしもし けつつもわれは こひわたるかも
訳:春になると 水草の上に 降りた霜のように 消えても消えても(いくら失敗しても)
私は(諦めずに)恋い慕い続けるでしょう
**「つつ」は繰り返しの意味。
水草の上の霜はすぐ消えるけれどまた翌朝、霜が降りている様に諦めない喩えでしょうか。
「霜が降りる」を「恋をする」に重ねたのでしょう。
*こちらの殿方がだめなら、あちらの殿方。私は「恋多き女」なのです。
寄霞
1909・春霞 山棚引 欝 妹乎相見 後戀毳
はるがすみ やまにたなびき むすぼほれ いもをあひみる のちにこふるも
訳:春霞が 山に棚引いているように引かれて 結ばれて 彼女と共寝をして
その後(彼女に)恋していますよ
**「欝」は「むすぼれる・むすぼる・むすぼほる」。
「むすぼほれ」は「むすぼほる:結ばれる」の連用形。「あひみる」は「共寝をする」。
「こふる」は「こふ:想い慕う」の連体形。「も」は詠嘆の終助詞。
*最初は何気なくひかれあって、結ばれましたが、今はもう夢中です。
1911・左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩爾 戀度可母
さにつらふ いもをおもふと かすみたつ はるひもくれに こひわたるかも
訳:赤い頬の(綺麗な) 貴女を想うと 霞が立っている 春日も暮れてしまいました
恋をしているからですね
**「さにつらふ」は「さに:赤い+つら:頬・面+ふ:動詞化する接尾語」で「赤い頬の」。
「はるひもくれに」は「春日+も:係り助詞(も:意味は無い)+くれ:暮れ+に:完了の
助動詞(ぬ)の連用形(~してしまった)中止法」。
*綺麗な貴女を一目見てもう夢中です。春の一日中ぼんやり想い慕っています。
昔はやはり「のどか」だったのですね。現代の男女のように「仕事に追われる」様な風情は
なかなか見当たりません。