船橋市役所の職員諸氏へのエールのブログを書いていたのですが、組織のことや業務のことをいろいろと組み立ててみようと考えたときに、何度かブログに織り込んでいる「やらされ感の強い仕事」に関して気になってきました。

 

 「やらされ感の強い仕事」と表現して微妙に違いがあるかもしれませんが、

 無批判・無思考(左をクリックしてください。)

 というブログも書かせていただきました。

 

 無批判・無思考にただただこなしていく。毎日毎日与えられた仕事をこなすという表現がこれまた適切・適当なのかは疑問符がつくところですが、そのことについて考えてみたいと思ったのです。前回に続いて書かせていただきます。

 

 「与えられた仕事をクリアする」だけであれば、ある程度能力のある人であればできるわけですから、細かい個別の法律によるものは別として信頼できる民間事業者に委託すればよく、わざわざ公務員が行う必要はありません。

 

 世間の公務員批判というのは、「高い給与や身分保障に見合った仕事を自治体職員はしていないのではないか?」という気持ちの現れなのだと思います。「こなす仕事」だけで満足している職員は、「こんなものでいいや」という妥協をしているように見えてしまいます。それは、無意識にでも、仕事の対象(それは究極的には、住民ということになります)を軽んじていることになります。

 

 住民というのは賢明で、ある意味では「お見通し」という部分があります。

 

 住民には、他の地方公共団体の公務員現職、あるいはOB・OGや国家公務員の現職・OB・OGから始まって、企業の経営者や、様々な職業の人々が自身の仕事を通して行政を見ています。それは、他の角度から見ると常に公務員の仕事っぷりは「船橋市役所以外の常識・考え方」で「監視」されているような部分があるのです。

 

 嫌な言い方ですが、立居振る舞いから、手先の動き、指先の動きだって「監視対象」であり、批判の対象になり得るのです。従って、全身全霊仕事に打ち込めというのではありません。

 

 緊張感を持って仕事を行なっていただきたいということですね。「世の中の常識」と言われるようなものの知識を蓄えていただき、それを意識した上で業務を行なっていただきたいものです。世間の常識と言われることを守りなさいというのではありません。むか~しむかし、「庁内をサンダルばきで歩き回る」のが公務員の批判の対象となったことがありました。

 

 これって世間の常識と公務員の常識との乖離を示す良い例だと思います。

 

 採用試験で一般常識を勉強して、合格したのだから自分は世間と同様の常識を持ち合わせていると思ったら大間違いです。

 

 私は、人生の1/3を船橋市役所の職員各位と関わらせていただきましたが、「そ~れは世間とはかけ離れているよ~」という話や「そ~れはちょっと違うんじゃない」というような話は山ほどあります。

 

 私が「常識人」であるというのではありません。先程記述したように、大学生が就職試験などのために「一般常識」とされることさえも、できていなかったり、世間で話題になっている「情報」に疎かったり、という感じです。

 

 そこを唯我独尊という感じで仕事をしていると、しっかり「見られている」ことが苦情につながったりします。