世界から見た日本の保守
扶桑社新書 谷本真由美 (著)
を読み終えました。
ちょっと長い引用で著者、出版社には恐縮ですが、ご興味を持ちの方はぜひお読みください。かなり平易な文章で、かなりぶっちゃけている感じですので読みやすいと思います。
私が振った下線については下の方で感想を書かせていただきます。
●日本の「保守」が抱える問題
このような欧州における保守主義の源流を見ればわかるように、保守主義は、特定の宗教や民族、国家への偏愛とは切り離されたものです。「日本が一番だ」と叫ぶことは保守主義ではありませんし、「外国人は嫌いだ」と言うことも保守主義ではありません。保守主義の核心は、あくまで「社会の変化の速度とそれに対応する方法」についての考え方なのです。まっさらな所から理想によって新しくしようとする革新に対して、伝統や慣習や歴史を尊重して漸次的に対応していこうという考えが保守です。こうした保守の意味を理解すれば、今の日本の保守には問題が多いことがよくわかります。①
まず初めに、日本で「保守」を自称する人々の言説には、「保守」とは人間の積み重ねてきた叡智、実証主義、制度の検証であることへの理解がないのです。②なぜ今までの仕組みを守らねばならないのか。単に「守れ」だけで「なぜ?」の問いがないのです。
そこに欠けているのは、バークが指摘する保守主義の本質です。人間の理性への謙虚さ、積み重ねてきたことの意味、実証主義、社会の先行きを見据えた慎重な変化論、具体的な生活の優先です。人々が安心して生活できなければ、それはもう保守ではありません。例えば、守るべき政策や制度を検討するに際して、社会にどんな影響があるのか、維持する場合と変えた場合を、データや先行事例を見てよく検討する。これは保守として最低限考慮しなければならないことです。
しかし、現在の日本の自称保守の人々や政治家には、そのような地道で謙虚な営みや科学やデータを軽視し、ただ壊れた機械のように「維持しろ」「守れ」とヒステリックに叫ぶ人があまりにも多いのです。それはもはや「保守」ではなく、「政治的狂気」③に過ぎません。
次に「反中・反韓」の感情的な主張、事実を捻じ曲げた歴史観への固執、日本を客観視せずに「日本スゴイ」と自画自賛するだけの自己満足な自国礼賛。これらはまったく「保守」ではありません。むしろ「悪い意味のナショナリズム」であり、「ファシズム」に近い考え方です。客観性を欠いた主張を、単に受け手が喜ぶ形で発信することは「ポピュリズム」です。④そして、客観的な事実を無視し、単に「移民はいらん」「すべて外国人が悪い」と繰り返すのは「排外主義」です。
本来の保守主義は「自国の文化と伝統を尊重すること」を核心としますが、それは「他国や外国人を憎むこと」ではありません。保守主義とは、文化や伝統を大切にしながらも、世の中をより良くするために他国や外国人と協力関係を築き、切磋琢磨し、どうしたらうまくやっていけるか、慎重に検討することです。⑤「自分の家族を愛する」のであれば、「近隣とも仲良くなること」を考えなければならないのです。
●ネトウヨと保守主義
「ネトウヨ」(ネット右翼の略)は、インターネット上で特定の国(主に中国・韓国)への激しい批判や嫌悪を表明し、強い民族主義的・排外主義的な主張を行う人々を指す俗語です。
しかし、これまで説明してきたように、保守主義とは「緩やかな変化を望みつつ、従来の仕組みや伝統を大事にする」という考え方なので、ネトウヨとはまったく異なるものです。真の保守主義は、自国や故郷がより豊かになり、安定した生活をし、人々の幸せになることを願う思想ですから、本来は他国の文化や伝統も尊重する協調主義でもあります。「自分の文化を大切にするからこそ、他者の文化も尊重できる」という考え方が、保守主義の本来の姿です。
ネトウヨの言動は、むしろ協調とは反対で、関係性を破壊する衝動に溢れています。彼らのような排外主義を突き詰めれば、まともな交易や学術交流は不可能です。さらに、ネトウヨには科学や歴史的な事実を歪める傾向があります。保守主義は何事も慎重に、データや証拠に基づいて判断することを重んじますから、この点でもまったく異なります。世の中の幸せを願う保守主義者ほど、ネトウヨを批判し、一掃していかなければなりません。
●戦後左翼思想の押し付けによる反動
ですが、日本の保守言説がヒステリック化し、ネトウヨまで出現してしまったのには仕方のない部分もあります。
日本は戦後、戦前・戦中の「国家主義」への反省から、教育やメディアが極端に左傾化しました。昭和の時代に教育を受けた人であれば記憶があるでしょう。
テレビや新聞、雑誌、書籍、演劇、映画などは、戦前の日本の価値観や文化の否定が当たり前であり、保守的なもの、右の否定が当然でした。日本を否定せねば知識人にあらず、という風潮があったのも事実です。それは、日本人が真に深く反省する姿でもありました。ですが、その中で祖先たちがやっていなかったことまででっち上げたり、戦前の良かった部分まで捻じ曲げたりしたことも事実です。特に氷河期世代の人々は、ネットで様々な資料が出るようになってはじめて戦前の日本の生活の豊かさや技術力の高さを知ったのではないでしょうか。それらは、学校でまったく教えられなかった事実です。これは歴史の連続性や祖先や家族の生活を知る上で、大変な損失でした。さらに、そのような反省の態度が、他国の反日、対日工作に都合よく使われてしまった点もあります。
その結果、「保守主義とは一体何か?」という理解も失われ、健全な保守主義について語られる機会もなくなり、かわりに「感情的なナショナリズム」「排外主義」が独り歩きしてしまったのです。このようなナショナリズムが特に広がったのが、戦後の左傾化した教育を受けた私のような氷河期世代であることには、理由があるわけです。
「家族を大切にしたい」「伝統文化を守りたい」「急激な社会変化に不安を感じる」「地域のつながりを大切にしたい」というごく当たり前の考え方は、多くの日本人が胸の中に持っている感覚です。しかし、これらを公に語ることさえできなくなり、多くは自虐的になってしまった。ですが、自由に語ることができなくては、民主主義は成り立ちません。保守主義も意見の一つであり、市民が自分の考えを公の場で語り、議論し、折り合いをつけていくことで民主主義は成立します。その前提が崩れるとき、民主主義そのものが機能不全に陥ります。
保守についてネトウヨ的な極端なイメージが先行すれば、保守的な意見を言いづらい空気も強まります。そして、その空気は、民主主義の健全性を損なっています。ですから、今、もっとも必要なのは「正しい保守への理解」に他なりません。
下線を引き、番号をつけて感想を述べようと思いましたが、全部が全部これが高市でしょう。ってなっちゃいましたので、とくに書きません。(笑)。
で、結論は「俺は保守だ!」です。