先日のお話の続きです。少々、小難しい話を書かせていただちゃったので、読み飛ばしていただいても結構です。

 

 皆様の前でお話をさせていただいた際に、「会派」についてちょっと触れました。「会派とはなんぞや」と言うことになりますと、過去のブログをちょっとお読みください。

 

 ふむふむ(4)

 

 「会派」とは、同一政党に属する者又は志を同じくする者の集合体であって、議会内部において政治的に競合し及び活動を強化し、政治的支配力を得ようとする政策集団をいう。したがって、その中心となる議長の獲得に全力を尽くすことが多い。つまり議員は、自分の所属する党派により又は所属党派には何の関係もなく、志を同じくする者が集まって自然発生的に会派を結成する。したがって、議長の許可やその統制下にあるものではない。会派の結成には会派が議会内における交渉団体の性格があることから、その資格として通常何人以上の所属議員がなければならないとの基準が内部的に定められるが、会派の本質から二人以上の議員がなければならない。例えば三人以上の所属議員を有する会派を交渉団体とする場合は、一人だけの会派はその資格はない。したがって、議会運営委員会において、会派の定義と交渉団体の人的基準を明確にしておく必要がある。

 

 少々わかりにくいのですが、以前はこういう風に受け止め、実際に今もそのような意識で結成されている会派もあれば、そうでない会派もあるのです。

 

 さて、ではその「会派」の目的や機能というのはどういうものなのでしょうか?

 

 と書きつつ、過去のメモ等をひっくり返してみました。そもそも修士論文テーマにもしようと思った件ですから、メモがありました。

 

 そこで、少々、国政政党から考えてみましょう。

 

 大学院時代のメモに先生が、「トリーぺルの4段階説」を言っています。法学部でもない私には初耳。(笑)。でも憲法の授業では当たり前のように出てくるようです。

 

 そしてまさに旬とは言いませんが、N国党の立花さんが船橋市議時代私に一生懸命説いていた、政党要件と政党助成金が大きく関係してくるんですね。

 

 以下は、何回かに分けて憲法と政党についてです。

 

 このトリーペルの4段階説を検索をかけながら、調べてみました。結果、国会図書館のデジタルデータでダウンロードをした美濃部達吉博士の論文?がありましたので、OCRで読み取って変換をいたしまして、可能な限り現代文字使いにさせていただきました。正仮名遣いの方が雰囲気あって良いのですが、読みにくい方もいらっしゃるかと思いまして、引用にあたりそのようにさせていただきました。

 

 長文ですので、いくつかに分けて掲載させていただきます。

 

 憲法と政党 : 国法学資料五篇

 

法学博士 美濃部達吉 著

憲法と政党

国法学資料5編

日本評論社版

 

 

 本書は嘗て私が国家学会雑誌や法学協会雑誌などに発表した論文の中で、外国の憲法又は外国の学者の研究を紹介したもの合せて5編を集めたものである。初は最近に発行した拙著「議会政治の検討」の一編として、その中に収録するつもりで.既に植字をも終えたものであったが、紙数の都合から、書肆の希望により、これだけを切り離して、別に一冊子とすることとした。何れも数年前の発表に係るもので、政治上の情勢の変化の激しい現在の事情から見ては、多少時間を失した感はあるが、尚国法学の資料として、多少の参考を供し得るであろう。

  昭和9年5月

 

憲法と政党

 

昭和4年2月号『国家学会雑誌』所載

 

本編は1926年8月3日にベルリン大学の創立者としてのフリードリヒ・ウイルヘルム三世王の誕生日記念祭に同大学のトリーペル教授の為した演説が昨年パンフレットとして公にせられたものである。初に記念祭の式辞が有り、それから本編に入って居るのであるが、式辞はこれを省略し、本論の要旨だけを左に紹介する。

 

 政党に対する国家の態度は歴史的に見て四の段階を経たものということが出来る。第一は敵視の時代で、之に次いで無視の時代が来り、進んで法律上に之を承認する時代となり、而して最後に憲法上の融合の時代が来る。唯此の最後の時代はその存在及性質に於いて現在は尚疑問の状態に在る。

 

 この四段の発達は比較的短い期間即ち百年を多く超えない間に行はれた。何となれば今日吾吾の理解する如き意義に於いての政党は、殆ど何処でも百年より古いものは無いからである。勿論同じ意見の集団としての政党は昔から在り、又反対者に対抗して共通の政治上の利害を主張し貫徹するための団結としての党派も、如何なる時代にも又如何なる政体にも存在した。しかし今日吾々の考ふる如き政党即ち政権を握るが為の強固なる闘争団結としての政党は、近代の代議政治に依って始めて現はれた産物で、議会を闘争の舞台とし選挙権を闘争の武器とするものである。それであるからイギリスの政党の歴史は略 Glorious Revolution の時代に始まり、アメリカの政党の歴史は合衆国憲法の成立に、而してヨーロッパ大陸に於ける政党の歴史はフランス革命に起因する憲法政治の創定に始まる。

 

 代議政治と政党の発達との間に斯く密接の関係の有ることから言えば、立憲国少なくともヨーロッパ大陸諸国殊にドイツに於いて、最初公然政党に対して敵視の態度を取ったのは一見不思議のようである。今日では吾々は政党の組織が代議制度を前提とすると同様に、一方には政党を以て代議制度の必然の結果と考へる傾きがあるが、その実は政党の組織及び政党の支配は、議会制度の特殊の形態に伴うに止まりその総てに必然に伴うものではなく、選挙制度の如何に依つては、政党の参与無く政党の選挙戦なくして行われ得べきものが有ったし、今でも有り得る。南ドイツの立憲政治の初期に於いては、政党組織は僅にその萌芽を現はしたに過ぎなかつたし、1848年に至つてもドイツの国民会議には、組織せられた政党の候補者としてではなく、一般の信任ある人としての代議士が多くの選挙区に於いて選出せられた。それであるから政府は代議制度はやむを得ず之を忍ばねばならなかちたが、政党に対しては之を敵視し成るべく之を抑圧せんとしたのも怪しむに足らぬ。19世紀の中頃に至つても、ドイツ連邦政府の政党敵視政策は政治結社一般殊に組織せられた政党の「連合禁止」(これはフランス法から伝わったのであるが)に依り著しくその勢力の伸暢を阻止することが出来た。当時の官僚政治の警察国に囚はれた見解は、独立なる政党の政策を官憲の活動に保留せられた作用に対する許すべからざる干渉と為したのであつたが、それは常時に於いては輿論の強き反対を受けず議会に於いてすらも大なる攻撃を受けなかつた。1834年のヘッセンの議会に於いてハインリヒ・フォン・ガーゲルンが時の政府を政党の代表者と呼んだことに基づき、政府代表者が此の「激しき侮辱」に対して熱烈なる反対演説を為した後、危く譴責を受けんとして僅に免れたなどは、今日之を聞けば殆どお伽噺の如き感が有る。当時のドイツ国民は政党を国の安寧に対する危害の如くに考へ、甚しきは道徳上の狂気沙汰と考へた程であつた。中にも民主主義に属する者は、民主的理論の古典として、政党は民集と国民全体との間に介入する異物で一般意思を偽造せんとする手段であると言ったジャン・ジャツク・ルーソウの言を権威として引用することを得た。