【大河ドラマ「麒麟が来る」。再開までの間に 関連地図 永禄3年の出来事】
前回の【桶狭間の戦い後~将軍義昭が将軍になるまでのざっくりした流れ】を箇条書きにしたところで、各年ごとに起きた出来事を地図に落としていきたいと思います。
○永禄3年(1560年)
5月19日 桶狭間の戦い
5月23日 松平元康(家康)が岡崎城を奪還
11月13日 三好長慶河内を平定
5月19日の「桶狭間の戦い」については過去記事をご覧ください。
1)本陣が「桶狭間伝説地」にあったと仮定した場合の合戦経緯マップ
桶狭間の合戦後に松平元康(家康)が岡崎城を奪還するまで時系列として一般的にいわれているのは。
1)5月19日 桶狭間で今川義元敗死。水野信元の説得で大高城を脱出。
という流れ。
ただ、もしこの説を取るのであれば20日までに大樹寺に入るには義元が死んだ推定時刻が14時から15時なので、水野の説得後すぐに大高城を出たとしても16時~17時。最短ルートだと大高道⇒東海道⇒大樹寺でいかないと結構きつい。。岡崎城に行くには途中いくつかの城の近くを通過せねばなりませんし、追討軍やら落ち武者狩りやら何やらで大高城からそのまま東に向かうのは素人目に見ても結構危険に感じます。
坂部(阿久比)城⇒常楽寺⇒鷲塚城⇒矢作川遡上⇒大樹寺ルート。桶狭間の戦いの裏では水野家が何らかで絡んでいたものと思われ、この時点では織田信長・松平元康・水野信元はそれぞれ利害が一致していたように感じます。大高城の南方は水野の勢力圏ですし、水野が家康を逃がそうとするなら東に逃走を図るよりよほど安全です。実際、常楽寺には桶狭間合戦後に元康が立ち寄ったという記録もあるようですしね。
その線で行くと、大高城を脱出した元康は坂部(阿久比)城で元康の母「於大の方」と再会を果たしたのではないでしょうか(於大の方は松平との離縁後、坂部(阿久比)城主の久松俊勝に再嫁しておりここにいた)。ここで何らかの今後のプランを話しあい、その後、足早に常楽寺へ。そこから船で対岸にわたり、水野信元の弟で於大の方の兄である水野忠重の居城「鷲塚城」から矢作川を遡上。大樹寺に入ったのかもしれませんし、入っていないのかもしれません。。
大樹寺では有名な話があります。追討軍に取り囲まれ自死を考えた家康がその住職に自死を思いとどませられ、できた旗印が「厭離穢土、欣求浄土」(この世の穢れを無くし浄土の世界を求めてこそ、天下の民の為の武)との話です。以後、家康はこののぼりを掲げて転戦します。でも何か綺麗すぎる。。家康ですよ?。あとからの創作でも何らおかしくありません。
当時の城主が「打ち捨てた」そうですが。。果たしてどうでしょうか。
このあたりまでは実は予定通りだったのかもしれません。
いずれにせよ。
松平元康(家康)は岡崎城に返り咲いた。
織田信長は今川家を撃退できた。
水野信元は大高城と重原城など旧今川の城を奪取できた。
(元康を逃がす交換条件で大高城を手に入れたのか?)
今川義元以外はみな、何らかの利を得たのでありました。
このあたりにも桶狭間の戦いの合戦背景がそれとなく見てとれますね。
次回は永禄4年を見ていきます。