第4話
「戻れなくなる」
一度気づいてしまったものは、
簡単には元に戻らない。
前と同じように考えようとしても、
どこかで小さな違和感が引っかかる。
最初はほんの小さなズレだった。
でも、そのズレは少しずつ広がっていく。
静かに。
逃げ場をなくすみたいに。
その日も、机に向かっていた。
やることは変わらない。
締切もある。途中の文章も残っている。
やればいい。
ただ、それだけだ。
それなのに、画面を開いた瞬間、
胸の奥に重たい感覚が落ちてきた。
書きたくない。
その言葉が、はっきり浮かぶ。
今までは、“進まない”だった。
でも今日は違う。
やりたくない。
初めて、そう認識してしまった。
「やっと気づいた?」
声は、後ろから聞こえた。
振り返らなくても分かる。
猫だった。
机の後ろの棚の上で、こちらを見ている。
「……気づいてない」
反射的に否定する。
まだ、大丈夫だと思いたかった。
ただ疲れているだけだ。
少し考えすぎているだけ。
また前みたいに戻れる。
そう思いたかった。
「戻りたいの?」
静かな声。
責めるでもなく、慰めるでもない。
ただ、確認するみたいに。
「当たり前だろ」
少し強く答える。
「戻らないと困る」
「どうして?」
その問いに、すぐ答えられなかった。
どうして。
仕事だから。やらなきゃいけないから。
続けないといけないから。
頭の中には言葉が浮かぶ。
でも、どれも薄かった。
口に出そうとすると、途中で崩れる。
「……普通は、そうするだろ」
最後に残ったのは、それだった。
普通。
またその言葉だった。
猫は少しだけ目を細める。
「それ、自分の言葉?」
心臓の奥が、少しだけ痛くなる。
まただ、と思った。
その問いは、いつも同じ場所を触ってくる。
自分でも見ないようにしていた場所。
画面を見る。
途中で止まった文章。
少し前までは、
ちゃんと“意味”があったはずだった。
やる理由も。続ける理由も。
でも今は、分からない。
何を書こうとしていたのか。
何を伝えたかったのか。
そもそも、なんでこんなに必死だったのか。
考えれば考えるほど、輪郭がぼやけていく。
「……分からなくなった」
気づけば、そう呟いていた。
猫は何も言わない。
ただ静かに、こちらを見ている。
その沈黙が、逆に苦しかった。
答えをくれない。
否定もしない。
ただ、“そこにある”。
机の上には、やりかけのものが並んでいる。
書き途中のメモ。開いたままのノート。
冷めたコーヒー。
全部、“ちゃんとやろうとしていた痕跡”だった。
なのに今は、そのどれもが少し遠い。
まるで、誰か別の人のものみたいだった。
「なんで、そんなに頑張ってたの?」
また、静かな声。
「……分からない」
今度は、すぐに答えが出た。
分からない。
本当に。
前までは、分かった気でいた。
頑張るのは良いことだと思っていた。
止まらないことが正しいと思っていた。
でも今は、その“正しさ”が急に空っぽに見える。
何かを信じて走っていたはずなのに、
気づけば“走ること”だけが残っていた。
どこへ向かっていたのかは、もう思い出せない。
部屋は静かだった。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、と時間だけが進んでいく。
前なら、その音に焦っていた。
急がなきゃと思っていた。
でも今は、少し違う。
焦りより先に、空っぽな感覚があった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
初めて、自分から聞いた。
猫は少しだけあくびをして、視線を外す。
「別に、どうもしなくていいんじゃない?」
あまりにも軽く返ってきたその言葉に、
少し苛立つ。
「無責任だな」
「そう?」
猫は興味なさそうに尻尾を揺らす。
「人って、すぐ答え探すよね」
その言葉に、返事ができなかった。
答え。
確かに、ずっと探していた。
正しい理由。正しい生き方。正しい選択。
間違えないための何か。
でも、その“正しさ”を集めるほど、
逆に自分が見えなくなっていた気がする。
しばらく、誰も喋らなかった。
いや、正確には。
最初から、猫はほとんど何も教えていない。
問いを置いていくだけだ。
答えるのは、いつも自分だった。
そのことに、今さら気づく。
窓の外を見る。
夜だった。
街の明かりが、ぼんやり滲(にじ)んでいる。
みんな今も、どこかへ向かっているんだろうか。
ちゃんと理由を持って。
ちゃんと意味を持って。
そんなことを考えて、少しだけ苦しくなる。
でも同時に。
“分からないまま座っている自分”を、
前ほど嫌いじゃなくなっていることにも気づいた。
画面の中の文章は、まだ途中のままだ。
続きを書くべきかどうかも分からない。
でも、不思議と前みたいな焦りはなかった。
止まってしまったんじゃなくて。
もしかしたら今、
初めて立ち止まっているのかもしれない。
そんな考えが、静かに浮かんでは消えた。
たぶん、一番怖いのは。
答えが見つからないことじゃない。
“本当は分かっていなかった”と気づいてしまう
ことなのかもしれない。
そして一度気づいてしまったら。
もう前と同じ場所には、戻れないのかもしれない。
