第5話

「静かな時間」



何もしない時間に、人は不安になる。

止まってしまった気がするから。

置いていかれる気がするから。

何かしていないと、
自分には価値がない気がしてしまうから。


でも、立ち止まったからこそ見えるものも、
たぶんある。

その日は、珍しくパソコンを開かなかった。

開こうとはした。

いつものように机の前に座って、
いつものように電源を入れようとして。

でも、途中でやめた。

理由はうまく説明できない。

ただ、“今じゃない気がした”。

前だったら、そんな感覚は無視していたと思う。

気分なんて関係ない。やるべきことをやる。

それが普通だった。

でも今は、
その“普通”を前みたいには信じられない。








窓の外を見る。

昼過ぎだった。

風でカーテンが少し揺れている。

部屋の中は静かだった。

時計の音。
外を走る車の音。
遠くで誰かが笑う声。

前からあったはずの音なのに、
今日はやけに聞こえる。

猫は床で丸くなっていた。

今日は何も言わない。

こちらを見ることもなく、
ただ眠そうに目を細めている。

その姿を見ながら、ぼんやり思う。

猫って、ずっとこうなんだな。


急ぎもしない。

焦りもしない。

何かを証明しようともしていない。

ただ、そこにいる。

それだけだった。


「暇じゃないの?」

気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

猫は薄く目を開ける。

「暇ってなに?」

「……何もしてない時間」

そう答えてから、自分で少し引っかかった。

何もしてない時間。

それって、本当に“無駄”なんだろうか。

猫はゆっくり瞬きをする。

「今、風見てたでしょ」

その言葉に、少し黙る。

確かに、見ていた。

揺れるカーテンを。

窓から入る光を。

ただ、なんとなく。


「でも、それ意味ないだろ」

反射的にそう返す。

すると猫は、小さくあくびをした。

「意味ないとダメなの?」

また、その言葉だった。

静かで、逃げ場のない問い。

意味。


最近ずっと、その言葉に縛られていた気がする。

意味があるか。
役に立つか。
無駄じゃないか。

気づけば、何に対してもそれを考えていた。

休むことにも。
遊ぶことにも。
立ち止まることにも。

意味を探していた。

「……意味がないと、不安になる」

素直にそう言ったのは、初めてだった。


猫は何も答えない。

ただ、静かに尻尾を揺らしている。

その沈黙が、今日は少しだけ心地よかった。

机の上には、まだ途中の文章がある。

やらなきゃいけないことも、消えたわけじゃない。

でも今日は、
不思議と“追われている感じ”が薄かった。


何かを諦めたわけじゃない。

投げ出したわけでもない。

ただ、少し止まっている。

それだけだった。

前の自分なら、こんな時間を怖がっていたと思う。

止まれば遅れる。
遅れれば置いていかれる。

そんな焦りばかりだった。

でも今は。

止まってみないと分からなかったことが、
少しずつ見え始めている気がした。


「人ってさ」

珍しく、猫の方から口を開いた。

「ずっと走ってるよね」

「……そうかもな」

「疲れないの?」

少し考える。

疲れている。

たぶん、ずっと前から。

でも、疲れてることに気づかないふりをしていた。

止まったら終わる気がしていたから。

「止まるの、怖いから」

そう言うと、猫は少しだけ首を傾げた。

「なんで?」

その問いに、すぐ答えは出なかった。

怖い理由。

置いていかれるから。
価値がなくなる気がするから。
ちゃんとしてない自分を見たくないから。

いろんな言葉が浮かぶ。

でも、
そのどれもが少しずつ繋がっている気がした。

窓の外では、風がまだカーテンを揺らしている。

何も生み出していない時間。

何も進んでいない時間。

でも、その静けさの中にいると、
少しだけ呼吸がしやすかった。

「……何もしないって、悪くないのかもな」

独り言みたいに呟く。

猫は目を閉じたまま、小さく喉を鳴らした。

肯定なのか、ただ眠いだけなのかは分からない。

でも、その曖昧さが少しよかった。

答えみたいなものを、
最近ずっと急ぎすぎていた気がする。

しばらく、そのまま何もしなかった。

時計は進んでいる。

外の景色も変わっていく。

それなのに、妙に焦らなかった。

たぶん初めてだった。

“何もしていない自分”を、
そこまで嫌いじゃないと思えたのは。

もしかしたら。

立ち止まるって、
“止まること”じゃないのかもしれない。

見落としていたものを見るための時間。

そんなふうに思えた午後だった。