第3話
「少しずつ、ずれていく」
気づかないうちに、
少しずつ見え方が変わっていくことがある。
昨日まで当たり前だったものが、
急に“当たり前じゃない”気がしてしまう。
たぶん、それはすごく小さなズレだ。
でも、一度気づいてしまうと、
前と同じようには戻れなくなる。
その日は、外に出た。
部屋にいても、どうせ進まないと思ったからだ。
理由はそれで十分なはずだった。
少なくとも、これまでは。
昼過ぎの街は、思っていたよりも人が多かった。
平日なのに、みんなそれぞれの方向に、
迷いなく歩いている。
急いでいるように見える人もいれば、
ただ流れに乗っているだけの人もいる。
その中に紛れて歩きながら、ふと思う。
――みんな、どこに向かってるんだろう。
すぐに、その考えを振り払う。
そんなこと、どうでもいい。
それぞれ理由があって動いているに決まっている。
自分だってそうだ。
やることがあるから外に出た。
ただ、それだけの話だ。
「それ、本当に?」
足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになる。
聞こえた気がした。
周りを見渡す。
当然、猫なんていない。
人、人、人。
誰もこっちなんて見ていない。
……気のせいだ。
歩き出す。
でも、さっきまでと同じ速度では歩けなかった。
ほんの少しだけ、リズムが崩れる。
理由を考えようとしている自分に気づく。
外に出た理由。
気分転換。集中できないから。
環境を変えれば、うまくいくかもしれない。
どれも、それっぽい。
でも、どれもどこか曖昧だった。
“それっぽい理由”を並べているだけで、
核心には触れていない感じがする。
じゃあ、本当はなんで外に出たのか。
考えかけて、やめる。
答えが出ない予感がしたからだ。
信号で立ち止まる。
赤。
横断歩道の向こう側には、
同じように待っている人たち。
誰も話していないのに、
同じタイミングで止まって、
同じタイミングで動き出す準備をしている。
規則的で、無駄がない。
合理的で、正しい。
そう思う。
思うのに、なぜか少しだけ違和感がある。
「それ、誰が決めたの?」
まただ。
今度は、はっきりしている。
振り返る。
当然、誰もいない。
でも、その問いだけが残る。
誰が決めたのか。
信号のルールなんて、
当たり前すぎて考えたこともなかった。
守るのが普通で、守らないのは危ない。
それで終わりのはずなのに。
“誰が決めたか”と聞かれると、
急にその当たり前が遠くなる。
青に変わる。
周りの人が一斉に歩き出す。
少し遅れて、自分も足を出す。
流れに乗る。
それが一番楽だから。
でも、その“楽さ”が、
さっきより少しだけ信用できなかった。
カフェに入る。
席に座って、コーヒーを頼む。
店内は静かで、落ち着いていた。
こういう場所なら、集中できるはずだ。
そう思って来た。
それなのに、ノートパソコンを開いても、
すぐには手が動かなかった。
周りの人を見る。
本を読んでいる人。
パソコンで作業している人。
スマホを見ている人。
みんな、それぞれの時間を過ごしている。
それが、なんだか妙に不思議に見えた。
同じ空間にいるのに、誰も同じことをしていない。
でも、それで成立している。
「何してるの?」
目の前のテーブルの下から、声がした気がした。
視線を落とす。
猫がいた。
いつの間に入ってきたのか分からない。
椅子の脚のあたりで、こちらを見上げている。
違和感よりも先に、納得している自分がいた。
ああ、やっぱりいるんだな、と思ってしまった。
「……仕事」
自然に言葉が出る。
「それ、今やりたい?」
少し間が空く。
やりたいかどうか。
考えたことがなかった。
やるべきだから、やる。
それだけだった。
「やらなきゃいけないから」
そう答えた瞬間、自分で言った言葉が、
少し軽く聞こえた。
「やらなきゃって、誰が決めたの?」
同じような問い。
でも、さっきよりも逃げ場がなかった。
締切がある。仕事だから。
そう言えば終わるはずなのに、
言葉にしようとすると、どこかで引っかかる。
「……決まってるだろ」
視線を逸らしながら言う。
猫は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
その沈黙が、妙に長い。
逃げるように、パソコンに視線を戻す。
カーソルが点滅している。
書けばいい。
それで全部戻る。
昨日までと同じように。
そう思っているのに、指が動かない。
さっきまでよりも、はっきりと分かる。
“書けない”んじゃない。
“書こうとしていない”。
その違いに気づいてしまった。
気づいた瞬間、余計に動けなくなる。
理由を探している。
やらない理由じゃなくて、やる理由を。
でも、それが見つからない。
「見つからないの?」
小さな声。
もう驚きはなかった。
ただ、少しだけ息を吐く。
「……分からない」
初めて、そう答えた気がした。
正しい理由を並べるんじゃなくて、
本当に分からないと認める言葉。
言った瞬間、少しだけ軽くなる。
でも同時に、何も支えがなくなる感覚もあった。
猫は、それ以上何も言わなかった。
満足したようにも、興味を失ったようにも見える。
ただ、静かにその場にいるだけ。
店内の音が、ゆっくり戻ってくる。
コーヒーの香り。カップが触れる音。小さな会話。
全部、さっきまでと同じはずなのに、
少しだけ遠く感じた。
目の前の画面に、また視線を落とす。
途中の文章。
続きを書くべきかどうか、まだ分からない。
でも一つだけ、はっきりしたことがある。
昨日まで“当たり前”だったものが、
少しずつ、当たり前じゃなくなってきている。
戻ることもできるはずだ。
何も考えなければいい。
前と同じようにやればいい。
でも、それをしようとすると、
どこかで引っかかる。
完全には戻れない。
そんな感覚が、静かに残っていた。
たぶん、人は急には変われない。
でも、見えてしまったものを、
ずっと見なかったことにするのも難しい。
小さな違和感は、静かに残り続ける。
気づけば、前と同じ景色のはずなのに。
少しだけ、世界の見え方が変わっているのかもしれない。
