南州墓地は、鹿児島市内の観光スポットの中でも一番好きな場所です。

高校生の時に初めて訪れて以来、何回行ったか数え切れないくらいですが、

不思議と飽きませんね~。

午前中の早い時間か夕方に、一人で訪れては墓石の間をゆっくりと歩いています。

ここには薩摩藩士だけでなく、他藩から加わり共に戦い亡くなられた方々の墓石も

一緒に並んでいます。

中でも福岡藩士2名の墓石は、他の墓石とは反対向きに建てられています。

せめて故郷が見えるようにとの配慮だと聞いていますが、そんなエピソードを頭に

浮かべながら、ゆっくりと散策するのが至福の時間です。






江戸時代末期、尊皇攘夷を旗頭に、水戸藩勇士達が筑波で決起した。

彼らは自らを「天狗党」と名乗り、攘夷の先駆けたらんとしたが、徳川幕府の崩壊に巻き込まれ悲惨

な最期をとげる。

「赤心をもって事にあたる。」当時志士達のあいだでよく使われた言葉である。

一度志を立てたら私心を捨て、目的達成の為には命をも惜しまない、というような意味であろうか。

水戸藩で斉昭に仕え、水戸藩随一の人格者として全国の志士達に影響を与えた「藤田東湖」。

西郷隆盛も水戸藩の江戸屋敷で面会し、たいへん感銘を受けたとされている。

天狗党には、武田耕雲斎ら藩の重鎮も複数参加していたが、「東湖」の三男の「藤田小四郎」が

次第に首領のように担がれていった。

幕府から追討令がだされた為、信州から美濃をさまよい、ついには加賀半藩で捕縛。

幕府からだされた措置は、斬首。敦賀の来迎寺にて処刑された。

享年24の早すぎる最後であった。



「新納忠元」

戦国時代の島津家家臣団においても、その勇猛さは今に伝えられています。

新納家は、島津宗家4代当主忠宗の四男時久を家祖とし、その子「実久」から分かれた分家の

家柄に1526年、新納祐久の子として志布志で誕生しました。

島津貴久と島津義久の2代にわたって仕え、主従一体となり幾多の戦いに参加し、常に先陣をきって

敵に向う姿は、島津一の猛将とだれもが認めるところでした。

義久・義弘からの信任も厚く、慶長の役で出征した時には、薩摩藩の留守居役に指名されるほどでし

た。

長年の武功により、大口の地頭に任命され所領を与えられましたが、秀吉の薩摩征伐軍に対して

は最後まで徹底抗戦を主張するほどの武闘派でした。

その後は大口で、若い武士達への教育に努め、彼が纏めた二才咄格式定目(にせばなしかくし

きじょうもく)はその後の薩摩藩全体の郷中教育の原点とされるています。

1610年、多くの武士、領民に惜しまれ大口城にて死去。

享年85歳の大往生でした。