人として生きること① | ©猫と春風の花慈しみ愛で。心。

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猫たちと暮らす穏やかでささやかな日常。
当たり前だけど、当たり前じゃない、
がかけがえない特別な宝物の瞬間瞬間。
一日一日大切に丁寧に重ねています。
(旧ブログ「神様がくれた宝物2007〜」より)




ほんの些細な小さな出来事から、目の前についふと自然に差し出してしまった手に。

ふとほんの些細なことから、優しい温もりが思いがけずに伝わり。

ほんの些細な何気ない小さな小さな触れ愛に、心がほっと温かくなる。

それを大切に毎日毎日何年も何年も積み重ねていったら

それがやがて「愛」という形になるのかな。

猫たちのことです。

初めから直ぐに完成されるものとはまた違うかけがえのない形の。


旧blogで探し物をしていたら、2007頃の古い猫記事に。

「包」に「手」を加えたら「抱」になる。そうっと手の平で包み込んでみる。

と描いていて。

(*^o^*)。


みんな本当の心からの気持ちなのに。

だから何度も描いてきた。人と違う。違うのが自分だからと。

自然や空や宇宙、生き物たちや季節、風や花々、木々たちを想う。

みんな無垢だから。

私にはそれが当たり前の現実で。

皆ハイテクの中だけで生きようとする。便利で面白いから。

勿論私もそうだけど、そこは私の現実ではなくて、逆に非現実。ネットなんか正に非現実と虚構。

自然と共に在るから人々が生きていられる揺るぎない真実が、その非現実の中に埋もれて忘れ去られてしまう。

会話はゲームの話ししかしないとか。

アニメの話しだけとか。

今の時代を考えれば特に違和感はないけれど、私には時折宇宙人に見える。

多分犬や猫が人間を観た時のような感覚じゃないかな。

犬猫に依存すると閉鎖的な非人間になると昔何かで読んだけれど、

私から見ると、ハイテクやネットに依存している人間の方が余程非人間に感じる。

心や感情を持たない機械みたいな。

時代だから仕方ないけれど。

自然や動物たちを想う方がより生の人間であることを私は感じる。

人間が赤ちゃんを公園に棄てても。

猫は子沢山でもみんな乳離れするまで、時には敵に牙を剥いても守り続ける。

野生動物も勿論。

パンダなんか大きな体で、指先ほどの小さな小さなまだ胎児みたいな赤ちゃんをとても愛おしそうに抱きしめる。

中には動物園で人工飼育されて子育てが身に付かない子もいるけれど。

人との関わりから生まれた例外。

生まれたばかりの赤ちゃんを意図して平気で棄てられるのは、人間だけだと思う。

そういう人種たちがじわじわと増えている気がする。

心をなくして人の傷みが判らない。平気で傷つけようとする。

続く。