今でこそ、大おばさんとなり、相応に図々しくもなってきましたが、
でもいくら年齢を重ねても、私の精神は、子供の時から、両親兄たちから受け継いで、両親がなって欲しかった自分でいたいというのが基本になっていて。
そこからなかなか一歩抜け出せない自分がいたり。
敢えて抜け出さないようにしている頑な自分もいたり。
だから様々なことをいくら経験しても、根底に流れているものはいつも変わらず。
変えなくてもいいと思っている。
純粋で慎ましく優しくあれと願った両親の想いを叶えておきたい。
誰に何を言われても、根底にある自分は変わらずにいて、それでいいと思っている。
旧blogによく描きましたが、例え周りと全く違っても、それが両親家族が授けてくれた大切な「個性」だと思って。
今も大事に抱えている。
大切な自分の人生、綺麗に生きなくてどうするの?くらい思っている。
だからそれを守るためにしたくもない闘いたくもない「証拠の記録」をし続けてきた。
もうしたくない。自分の心と全く真逆なことをし続けていると精神が壊れるから。
だから、やめてと毎日毎日叫んでいる。
今日ベローチェでつらつらやっていて、「もうひとつの雨宿り」など想い。
「無欲」について考えてみた。
何かを欲すれば、何かを失う気がした。
欲望も成長過程で大切な精神であり、無欲では進歩がない。
精神の向上や達観を目指すことの欲望はある。
そういうことではなく、物欲的なものや偏った快楽的なもの。
欲しくて欲しくて、ひとつ得れば、それをおざなりにして、また次の欲望が湧く。
そういう「失う」ということ。
過去のことが要らなくなってしまうような限りない欲望のこと。
何かを失う。
私は「無欲」を想った。
欲さなければ現状を失わない。
手に入らずに傷つくこともない。
消極的ということでなく、大切にしたいものが満ちているから。
それを失わないように、ささやかに重ねていくような。
「無欲」になることで逆に引力にも似た、引き寄せられるエネルギーのようなものが生まれるような気もしている。
本当に「無欲」になるならば、そのような期待すらしない。
無為自然でありのまま在ることが、私には大切に思えて。
そんな哲学的な思想が、さださんの「もうひとつの雨宿り」には凄く在るような気がして。
また長くなりましたが。
22:52
続く