2024年9月1週目・エレミヤ牧師の聖書解説動画の紹介です。是非ご覧ください。
紹介動画は2本になります。
是非御覧ください。
そして、拡散して下さい。
↓の(ポイント)も必ずお読み下さい。
そして、聖書箇所も御自分でお読み下さい。
それから、動画を御覧になる事をお勧めします。
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正しくリンクしています。
私のPC(OS)が古いせいです。
私はある、と信じる ヨハネ8:20~28節
レムナントキリスト教会
(コメント)
(さいせん箱)
賽銭箱には今で言う献金を人々が入れていた。
献金など聖書は命じていない、献金を強調する 教会はカルトだ、
まがいの意見もあるようだが、 聖書に聞くべきである。
創世記28:20~22 ヤコブ(イスラエル)はベテル(神の家という意味)で
神の教会の実態に関する夢を見た。
その中で、彼は 神と請願を結び、
彼の旅路を祝してくれること (クリスチャン生活を祝してくれること)
食べ物(みことばのパン)を与えられること、衣 (義の衣)を与えられること、
無事に父のもとへ帰ること(天の父のもとへ帰ること) と関連して、
自身は必ず1/10を捧げることを誓っている。
であるので、1/10献金とは単に経済的なことにとどまらず、
その人が神との請願を果たし、
天の御国に入ることとト密接に関係していることがわかる。
神への約束を守るも守らないのも、それぞれの自由であるが、
請願を守らないものが天の御国に必ず入れる、とはとても思えない。
(あなた方は下から私は上から来た)
上すまわち天的なものは天に帰り、下、すなわち、この世的なものは
自分の罪の中で死に、天に行くことはない。
自分の歩みが天的なものであることが 大事である。
コロサイ3:1~ 天にあるものを求めなさい、とパウロは言ったが、
我々の歩み次第で、我々が後に行く場所は異なってくる。
(私がそれであると信じないなら、自分の罪の中で死ぬ)
我々はみな、罪の仲で生まれ、罪の中で死んでいく、
その結果、天の御国になど 決して入れない、これが原則である。
しかし、例外的な方法が一つあり、それは イエスを信じること、
それにより、罪の中を歩む生活から解放される、という方法である。
私がそれ、ということばはギリシャ語で、「私はある」という意味合いにある。
他でもない、神がモーセに対して自分の名前を語り、
「私はある」といわれたのと 同じことばである。
であるので、イエスという方を聖書的に理解すべきである。
他でもない、モーセに現れた神が人の姿をとり、来られた方それが、
イエスの本来の姿なのである。
(私はそれを初めから語っていた)
イエスは宣教の初めから一貫してご自分が誰であるか、語ってきた。
しかし、正しくイエスを理解する人は少なかった。
さらにいえば、初め、すなわち、「はじめに神は天と地とを創造した」
といわれるときから ずっと聖書はキリストに関して語ってきた。
たとえば、アダム、エバの時にはキリストは女のすえとして、 描写されている。
そのように聖書が繰り返し、キリストに関して陰に陽に語る。
何故なのか?
その理由はキリストの中にこそ、我々の救い、解放、癒し、
祝福がみな隠されているからである。
(人の子を挙げたとき)
この表現は明らかに荒野でモーセが青銅の蛇を挙げたことがらをさす。
蛇は死や罪をもたらすサタンの型と理解できる。
キリストは自ら、死を選び、十字架に挙げられた。
これは一見敗北の様に見えるが、
その実、その死をもって我々の罪の身体を殺し、滅ぼし、 罪から解放した。
我々の解放は自ら十字架に挙げられた方の行いによる。
(私を遣わした方は私とともにおり)
神が我々を遣わしたなら、神が我々とともにおられる。
それゆえ、神の助け、力を期待できる。
神がパウロを使わしたので、彼を通して、その当時にもかかわらず、
彼はヨーロッパ全域に 福音を伝えた。
神がともにいたので大きなわざが行われたのである。
我々も、もし主が我々を遣わしたのなら同じようなわざを期待できる。
周到にたくらんだ企み 民数記25章
レムナントキリスト教会
(コメント)
(バラムと偶像崇拝)
この章で扱われている偶像崇拝は黙示録2章で
バラムの記述とともに記されている。 すなわち、
この章で書かれている偶像崇拝は、 単に旧約の話として終わるのではなく、
新約の 教会でもおき得る罪を扱っているのである。
教会における偶像崇拝、器崇拝には気をつけるべきである。
(偶像の神にいけにえをささげ、民は食し、拝んだ)
食べることはパンに通じ、パンは神のことばや教理に通じる。
すなわち、偶像であるマリヤ像を拝むことは
神から恵みを受けるなどの パン、教理である。
このようなパン、教理を受けることは神の怒りをかう。
(祭司であるピネハスは手に槍を持ち)
ピネハスは祭司として、姦淫、偶像崇拝をする二人を 突き刺した。
槍はたとえの意味合いとしては剣と同じように、
みことば、教理をさすことがらと理解できる。
偶像崇拝を見過ごさず、槍、教理をもって戦うことは 神に賞賛される。
(私のねたみをねたみとして)
ピネハスは自分のためというより、神の側にたち、
偶像崇拝に対してねたみの怒りをもつ神を代弁して 行動した。
我々も自分の都合でなく、神の立場にたち、 奉仕することが求められる。
たとえば、艱難前説、OSASなどは、神の怒りをもたらす 教えなので、
それに対して、剣や槍をもって 戦うことは神に賞賛される奉仕。
*: OSAS(Once Saved,Always Saved)とは、
『一度救われたら、ずっと救われたままである』
(ピネハスの神への熱心により永遠の祭司の契約を受ける)
彼の熱心のゆえに彼は祭司の契約をピネハスは受けた。
我々も見習うべきである。
(彼らはあなた方の敵であり、
巧妙にたくらんだ企みでコスビ(嘘)を通して、反抗へ誘い)
偶像崇拝へ導くものは、巧妙な方法、企みで民を偶像崇拝に導く。
たとえば、カソリックでは、マリヤ像を拝むことを礼拝とは 呼ばず、
崇敬といい、ことばを言い換えて偶像崇拝の罪へと 誘っている。
彼らは一見、親切で優しいリーダーのように見えるかもしれないが、
神のことばによれば彼らは「あなた方の敵」である。