敢えて、ドライな言い方をしますが…

40代の妊活は、お世辞にも「効率が良い」とは言えず、「生産性が高い」とも言えません。

また、子どもを亡くす事も、少子化対策のような社会的観点から言えば、「効率が良い」とは言えず、「生産性が高い」とも言えません。

「効率が良いほどgood」
「生産性は高いほどgood」


30代までの私は、そのような価値観が浸透している今の社会に、疑問を持つこともなく、とことん効率と生産性を重んじていました。

ところが、上述した2つの出来事によって、スポットライトが当たる「goodな表舞台」から、「goodではない舞台裏」に立つことになったわけです。

そこに立って、初めて見えてきたのは…

意外なことに、

「効率が悪いのはbad」
「生産性が低いのはbad」

…という実感ではありませんでした。


逆に、「効率と生産性を重視する価値観って、本当にgoodなの!?」という疑問を抱くようになったんです。

端的に言うと、「効率と生産性をとことん追求して行き着く先は、ロボットではないか」と感じています。

少しシニカルな表現になりますが…

「同じような背格好の人間ロボットが、社会という名の工場内にズラリと並んでいる。

効率良く仕事をして、生産性高く次世代ロボットを量産できた者達が、工場内で賞賛され、高待遇を受ける。

そこでは、生身の人間の個別性や、リアルな要素(日によって気分や体調が違うとか、無為に過ごしたいとか、実存的な悩みとか…)は、『非効率的』『非生産的』という名のもとに捨象されていく…


やや極論かもしれませんが、そんなふうに、ロボットに対する視点を生きた人間に当てはめたのが、「効率」と「生産性」ではないかと思うようになってきたんです。

以前のこの記事でも触れたように、

暗黙のうちに横たわる「女性は子を産む機械」思想 | 40代の妊活を丁寧に語りたい (ameblo.jp)

生身の人間の人生って、一人ひとりでまるきり違うし、そう効率よく運ぶものではないはずです。

もちろん、ほどほどの効率と、そこそこの生産性は大切ですが…

それらが高ければ高いほどgood、と言わんばかりの雰囲気をメディアなどの論調から感じていて、それは「私」を見失わせるだけのような気がしています。

 

効率と生産性を追求した結果、本当に「私」は幸せになれるのでしょうか…

 

一体、誰のための効率と生産性なのでしょうか…