以前のブログで、『日常の次元』『命の次元』という表現を使いました。

 


元気に生きている次男・三男と関わる時は、『日常の次元』=『命の安全が当たり前にあって、生き死にという深刻な問題は考えなくていい次元』になります。その次元では、

アレルギー体質でアトピー肌の次男のプール問題に苦慮したり、
歯磨きを嫌がる次男が虫歯になりやしないかと心配になったり、
次男の小学校はどこに入れるのが良いのか教育環境に悩んだり、
余裕がなくて三男の離乳食をなかなかステップアップできずにいる現状に焦ったり、
寝ない子の三男が少しでも快適に寝られるように、毎晩、気温情報と睨めっこしながらパジャマ服を選んだり…


そんな事柄と向き合う私がいます。

一方で、亡き長男と関わるのは、『命の次元』=『生き死にという、深刻な命の問題が眼前にある次元』になります。長男の生きた2ヶ月間には、『日常の次元』が微塵も無かったからです。

「あの日緊急帝王切開にならなければ、翌日にはもう亡くなっていただろう。何とか生きて産まれてくれて良かった…」
「長男はほんとに可愛かったなぁ…」
「亡くなった後エンバーミング処置ができていたら、今も長男は傍にいたんだろうか…」
「葬儀の後の3ヶ月のことは、今もはっきり思い出せない…」


そんなことを思い考える時が、長男と静かに関わっている時になります。

そして、

私自身は、長男が産まれた6年前から、人生の軸足が間違いなく後者にあります。

それだけに、二つの次元の狭間で混乱してしまいます。

NICUに通っていた当時の私や、長男を亡くした直後の私からしたら、

上述したような『日常の次元』での腐心は、極めて瑣末な事であり、どうでもいい事であり、贅沢すぎる悩みだからです。

「そんなのどうだっていいじゃないか」
「元気に生きてたら、何だっていいじゃないか」


心からそう思います。

一方で、次男と三男の衣食住を整えて、健康且つ健全に育てていこうとすると、どうしても「瑣末な事」に心を砕かねばなりません。

この大きな矛盾…

……

……

「今後の人生は、命の次元で生きたい」
「命の次元でしか生きたくない」

これが本心の私が、次男と三男をどうやって育てていけばいいのか


4月から次男が幼稚園に入ったことで、一気にこの問題が顕在化した私は、

だいぶ無理をして、毎日『日常の次元』に自分を引っぱり上げていることに気づきつつあります。

もし、他人事として、

「その人は、6年前に一人目の子どもを亡くして、その後に二人の子どもを授かった」

…と聞いたとしたら。以前の自分なら、

「一人目を亡くしても、二人子どもがいるなら悲しみはある程度打ち消されるはず。良かった良かった。もう大丈夫だろう」

…と思った気がします。

ですが、それが他人事ではなく、我が事となった今の自分がしみじみ思うのは、

「以前の私は、個別性を全く考えていなかったなぁ」ということ。

………

例えば、ある人にAさん、Bさん、Cさんの三人の親友がいたとします。

ある時、Aさんが不慮の事故で亡くなってしまったとしたら。

「Aさんが亡くなったのは悲しいだろうけど、親友はBさん・Cさんもいるから大丈夫だよ」

などとは、声かけしないと思うんです。

なぜなら、「親友」という同じカテゴリーで括れても、Aさんと、Bさん・Cさんは全く別の人生を歩む別個の人間だからです。

同じように、「子ども」という同じカテゴリーで括れても、亡くなった長男と、生きている次男・三男は全く別の人間なわけで…

エアコンは、壊れたら同じ型番のエアコンを買って埋め合わせることができますが、

長男の存在の喪失を、次男・三男の存在で埋め合わせられると思うのは、あまりにも「人を物として見る見方」だったなぁと、以前の自分に対して思います。

今の私は、長男を失った悲しみと、次男がいる喜びと、三男がいる喜びの三つを、それぞれ別個に経験しているのが正確な事実であり

PCのデスクトップ画面に例えるなら、長男フォルダを次男フォルダ、三男フォルダで上書きしたのではなく、三つの別フォルダが並んでいる状態です。

ただし、次男・三男の存在が、長男を失った悲しみに何の影響も与えないのかと言うと、そうではありません。

「次男・三男の存在が、長男を亡くした経験を相対化させてくれる。それによって、長男を失った悲しみをようやく対象化できるようになった。対象化できて始めて、悲しみを心に収める作業ができるようになった」

という影響を与えてくれています。

例えるなら、ある山Aに登っている時は、その山の全貌は分かりませんが、隣の山Bに移って山Aを眺めた時に、「ああ、山Aの高さはこのくらいだったんだな。あんな木が生えてて、あっちにも別の登山道があったんだな…」などと、全貌が俯瞰できるのと同じです。

もし、長男を亡くしたまま次の子どもを授からなかったら…

 

私は経験の相対化ができず、悲しみの全貌を知ることなく、悲しみに呑まれた人生を送っていたと思います。

それが、次男・三男という「長男とは別の心の足場」ができたことで、ようやく経験の全貌(緊急帝王切開の出来事や、長男と共に生きた2ヶ月間のこと、容態が急変したあの日のこと、亡くなった瞬間のこと、亡骸を抱いて家に連れ帰った時のこと、冷房をガンガンに効かせてドライアイスを敷き詰め、長男の亡骸と共に過ごした2日間のこと、葬儀の日のこと、それ以後の想像を絶する苦しい日々のこと…)を、少しずつではありますが、直視することができるようになってきました。

ようやく長男のことを語れるようになってきた、とも言えます。

そういう意味では、次男・三男の存在は、いわゆる「もう大丈夫」な状態に向かうために不可欠だったわけですが、以前の自分の見方とは「もう大丈夫」の意味合いがだいぶ違います。

 

*「もう大丈夫」な状態を、悲しみが癒えた状態ではなく、「悲しみに呑まれて自分を見失ったり人生を投げ捨てたりすることなく、悲しみを心に収め、悲しみを携えてその後の人生を歩んでいる状態」と捉えるようになりました。

………

この個別性の話は、実生活ではなかなか人に言えるものではありません。

義両親や友人知人から、

「二人子どもができて、良かった良かった」
「もう大丈夫だね(大丈夫にならないといけないよ)」

という暗黙のメッセージを、折に触れ感じるからです。

 

その見方が全て間違っているわけではないし、それがメジャーな見方であり、私自身、当事者にならなければその見方のまま生きていたでしょう。

 

ただ、当事者になった今、

 

上記のような過不足ない正確な本音を、日常的に語れる場が欲しいと思ってしまいます。

 

そのせいもあってか、「天使ママ・天使パパしか住んでいない町に住めたらどんなだろう…」と、最近よく空想しています。

長男を亡くしてからの5年は、妊活に注力することで、人生の時間を一時停止させていた部分がありました。

それが、昨年9月に三男を出産して妊活が終わり、止まっていた時間が動き出したわけですが…

日が経つにつれ、この新しい人生に対して「こんなはずじゃなかった」という違和感が強まっています。

違和感をはっきりと自覚したきっかけは二つあって、

一つは、夫の仕事の打ち合わせに同席したこと。

その日、喫茶店に先に来ていた先方3名は、いかにもバリバリ仕事してますという雰囲気の方々。スーツをきちっと着こなし、身だしなみも完璧。名刺交換をした後は、専門用語が飛び交う会話を2時間聞いて過ごしました。

それは、長男を亡くすまで私が身を置いていた世界(=仕事がアイデンティティの核だった世界)でした。

6年前までは、私も向こう側にいた…

でも、長男を亡くしてから価値観が一変して、そこから離れて生きようと決めたはずなのに…

なのになぜ、私は「以前の価値観の世界」とこうして接しているんだろう…

こんなはずじゃなかった、と。



………


もう一つは、次男の幼稚園入園に伴って、他のママさんと交流するようになったこと。

4月から次男が幼稚園に入り、同じクラスのママさんと立ち話をしたり、LINEをしたりするようになりました。

そのコミュニティでは、私は3歳と0歳の男の子二人を育てているママであり、

実は長男がいて、今育てている二人は次男と三男なんです、と正直に言えるほどの距離感ではありません。

会話内容も、小学校はどこの校区とか、子どもがこんな虫を取ってきたとか、生死が問われる「命の次元」とはかけ離れた平和なもの

そんな会話を毎日していると、

どうして私は、子どもを亡くしていない人達のコミュニティにいて、子どもを亡くしていないかのような会話をしているんだろう…

長男を亡くしてから、「命の次元」でずっと生きていきたいと望んでいたのに…

こんなはずじゃなかった、と思うわけです。



………


今の生活に対する違和感を辿っていくと、

私は「天使ママ」がアイデンテティの核にあって、「天使ママとして生きたい」と思っているんだな、と気づかされます。

ただ、「天使ママ」という属性は難しいもので、

もしこれが職業を表しているなら、天使ママという仕事に就けばいいし、

住所を表しているなら、天使ママという地域に引っ越せばいいのですが、

そんなわけにもいかず、「天使ママとして生きる」ことの難しさに直面させられています。

理想的には、

子どもを亡くした親だけが住む町があって、ご近所さんも、幼稚園のママさんもみんな天使ママで、日常会話もそういう内容で、何か仕事をするとしても天使ママしかできない仕事に就いて…

そんなふうに、天使ママ100%で生活できたらいいのに、と思います。

次男と三男を追いかけ回すドタバタな毎日も、今は長男と共に生きた私/長男を亡くした私が基軸になっていない気がして、どこか表層的でアンバランスな感じが否めません。

 

半年前に同じような記事を書きましたが、

 


半年経った今も、ただただ立ち尽くしています。

昨年9月に三男を出産してから半年。

先日、無事に生後6ヶ月を迎え、ささやかにハーフバースデーをお祝いしました。

一年前の3月は、NIPTを受けていた頃で、

あの頃の不安と緊張を思うと、一年後にこの未来がやってきて本当に良かったと感謝します。

44歳で妊活・妊娠すると、必ずリスクやデメリットを強調されますが、

私の場合は、排卵障害がありながらも、地道なタイミング法で1年3ヶ月で妊活成功し、妊娠経過は順調、出産(予定帝王切開)の大きなトラブルもなく、生まれた三男に問題もなく、至って健康に生後6ヶ月まで育っています。

また、次男の時は腱鞘炎や腰痛に悩まされましたが、2回目の育児で慣れているせいか、今回はそういった痛みとは無縁。

さらに40代のメリットを意識するなら、30代に比べて経済的に安定している分、社会資源をフル活用できるし、精神的にも余裕があるので、「平均・標準・普通」や「承認欲求」に振り回されることなく落ち着いて子育てできています。

以前の記事で書いたように、出産・育児の大変さは、年齢に関係のない、他の要因に左右される部分もとても大きいと感じていて、

 

 

 


ネット上で調べても、育児がしんどい人と平気な人の違いとして、「母親のキャパシティ」だけでなく「子ども側の要因」と「周囲のサポート度」が挙げられています。

もし、タイムマシーンに乗って3年前の自分に会えるとしたら、

「43歳から妊活再開して、授かるまでに少し時間はかかったけど、その後はスーッとうまくいったよ。不安の9割は杞憂に終わったよ」


「年齢によるデメリットはもちろんあるけれど、何歳だってそれぞれにデメリットはあるし、当然年齢に応じたメリットもあるよ」


「育児の大変さは、母親要因以外の部分も大きくて、そこは自分にはコントロールできないからあまり気にしなくていいよ」

…と、声をかけてあげたいです。

ともあれ、個人的に最も大変だと思う最初の半年の怒涛育児を何とか乗り切れたことに安堵の気持ちでいっぱいで、今週は「はー疲れた」と思っても、「あ、もう生後半年を越えたんだから、死に物狂いで頑張らなくていいんだった」と、ホッとする気持ちがセットでついてきます。

年齢で諦めずに、淡々と妊活を続けて本当に良かったと、ぷくぷくした三男の顔を見つめながら思っています。

昨年9月に、3回目の帝王切開で三男を出産しました。

術後の体調不良に加えて、怒涛の二人育児、子ども側の要因(次男の赤ちゃん返り&アレルギー問題、三男の寝ない&泣き続ける)が重なって、昼も夜も休めずストレスMAXな日々。

そのストレスから食に走って、産後も全く痩せず、現在は妊娠前+10kg…

そんな現状を、「よくある普通の産後太り」だと思っていました。

が、どうもおかしい…

なんか変…


例えば、ストレスが減っているはずの夫の休日でもどんどん食べたり、

お腹が空いていないと分かっているのに、食べるのをやめられなかったり…

……

……

そんなおかしさを色々と考えたり調べたりした結果、

自分は「過食症」だろうと行き当たりました。

おそらく私は、産後の体調不良や体型変化のショック、二人育児のしんどさなどを、「もうダメだ、取り返しがつかない」「状況はもう良くならない」などと超ネガティブに捉えて、それを事実だと思い込み…

その悲惨で手遅れな現実(と思い込んでいるもの)に心が耐えきれず、一気に劇的に改善させたくて、「食べる」という間違った対処行動に走っていたんだと思います。


食べると一時的に気を紛らわせられるものの、食べ終わるとまた悲惨で手遅れな現実(と思い込んでいるもの)を直視するハメになるので、また心が耐えきれなくなり、再び食べる…の繰り返し。

他の対処行動を探せば良かったのですが、気が紛れて楽になるのは本当だし、即効性があるし、手軽だしで、いつでもどんな時でも「食べる」一択。

それは+10kgになるわ…と深く頷きました。

もっとも、この対処行動は今に始まったことではなく、振り返ると30年くらい同じパターンです。こんなに体重増加するほど食べ続けなかったので、今までは問題が顕在化しなかったのだと思います

もし私が、本当に「過食症」だとしたら…

……

問題の核は、「食べる」部分ではなく「超ネガティブな捉え方」にある気がしました。

つまり、「しんどい状況で、良くなるには時間がかかる」事態を、「もうダメだ、取り返しがつかない、決して良くならない」などと極端に捉えるクセを自覚して、

そのクセに走りたくなるのをグッとこらえて、

しんどい、疲れた、不安、途方に暮れる…といったネガティブな感覚や感情を、ありのまま感じ続けることが、最も建設的な対処行動のように感じました。

……

現在、10kg太った姿を鏡で見ると「これは誰!?」とかなり落ち込みます。

が、ここまで太らなければ30年続く問題(過食症)に、本気で向き合わなかった気がします。

よりポジティブに捉えるなら、自分の問題を根本解決するためには、人生で一度、ここまで体重増加する必要があったとも言えます。


日々の育児疲れに加えて、激太りの後悔や自責の念まで負うことにはなりましたが…

45歳にして人生を変えるチャンスを手にしたのも事実なので、今日から一日ずつ地道に、超ネガティブな捉え方を見直していこうと思います。