『難波宮跡』(難波長柄豊碕宮) | 自然体でいきましょう

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頑張りすぎない
穏やかな日々

 

6月15日(土)
 
 
今回は『難波宮』(なにわのみや)
正式名称『難波長柄豊碕宮』
(なにわながらとよさきのみや)
のお話です
 
 
その場所は
長い間どこにあるか分かっていませんでしたが
1954年(昭和29年)から開始された発掘調査で
ようやく場所が特定されました
 
 

森ノ宮駅から

中央大通りの南側を西へ向かい

法円坂の辺りに来ますと

左手に『難波宮跡』

右手奥に『大阪歴史博物館』が見えてきます

 

道路を挟んだ北側は『大阪城公園』です

『難波宮』の範囲は

北は『大阪城公園』にも及んでいます

 

 

その為『難波宮跡』の北側を東西に走る

中央大通りの上を並走する阪神高速は

ほとんどが高架なのですが

この区間だけ一旦坂を下って

遺跡を壊さない様に高架の柱を立てずに

平地を走る様な造りになっています

 

 

『難波宮跡』

大極殿跡が見えてきました

 

草が青々として

またいつもの様に所構わず

お花探しが始まりました

 

 

頭の中はもうすっかり

難波宮のあった頃の時代に

るんるん気分で♪タイムスリップしております

 

 

しかし咲いているお花は

ほとんどが外来種で

当時とはずいぶん違うみたいです

 

 

左上:コメツブウマゴヤシ(ヨーロッパ)

右上:ヘラオオバコ(ヨーロッパ)

左下:ホソムギ(ヨーロッパ)

右下:ハナハマセンブリ(ヨーロッパ)

 

左上:ヒメジョオン(北アメリカ)

右上:マメグンバイナズナ(北アメリカ)

左下:シロツメクサ(ヨーロッパ)

右下:モモイロシロツメクサ(ヨーロッパ)

 

こちらは在来種

ネジバナ(多年草)

ラン科ネジバナ属

原産:日本、ヒマラヤ、シベリア、オセアニア

 

トベラ(トビラノキ)

トベラ科トベラ属

原産:日本、朝鮮半島南部、中国南部、台湾

名前の由来は、枝葉を切ると悪臭を発するので

節分の魔除けに揚げられたことからだそうです

4〜6月に咲く花は甘い良い香りがするそうです

生薬としての利用も

 

アカメガシワ(雄花 雌雄異株)

トウダイグサ科アカメガシワ属

原産:日本、朝鮮半島南部、中国南部、台湾

建材、薪炭、生薬などに利用

 

いきなり何を道草くってんの~

と皆様の呆れた声が聞こえてきそうですが…汗

それにしても難波宮があった頃には

どんなお花が咲いていたのでしょうね




竹内街道(日本最古の官道)

はここから始まっていました



 

 

さて

さっきから見えているのになかなか着かない

『大阪歴史博物館』にやっと着きました

(左隣の建物は『NHK大阪放送会館』です)

 

 

この辺りには『難波宮』とは別に

『法円坂遺跡』と呼ばれている

5世紀頃の建物群が見つかっています

 

パンフレットの図です

なぜか南北が逆さまになっていたので

北を上にしたら字が逆になってしまいました

↓黒が『古墳時代』

赤が『前期難波宮(飛鳥時代)』

 

 

(↓ここからは私が勝手に調べた内容です

諸説ありますので、こんな説もあるんだな~

という程度に聞いててくださいね)

 

 

なぜ古墳時代の遺跡がここにあるのか?

上町台地の北の端に位置する

この辺りは古くから水運の要でした

当時の大阪平野はまだ河内湖という湖でした

(↓大阪湾環境データベースサイトより)



仁徳天皇の皇居であった

『難波高津宮』(なにわのたかつのみや)も

現在まだその所在は

明らかになっていないのですが

この辺りにあったのではないか

という説が有力なのだそうです

 

 

『延喜式 神名帳』によると

かつて『生国魂神社』は

『難波高津宮』内にあると書かれていたそうで

 

 

豊臣秀吉が大阪城築城の際に

当時、大阪城の敷地内にあった

仁徳天皇を主祭神とする『高津宮』(こうづぐう)と『生国魂神社』を共に

現在の天王寺七坂付近に移したとされています

 

 

また石山本願寺の所在も

現在はっきりとは分かっていませんが

本丸、二の丸の辺りという説が有力なようで

建立の際に古墳を壊したという伝承もあるらしく

巨大な前方後円墳があったのではないか

という説もあるみたいです

 

 

本当のところはどうなのかは分かっていませんが

もし本当なら…その巨大古墳ていったい誰の?

そんな事があっても不思議ではないくらい

重要な場所だったという事ですよね

 

『法円坂遺跡』の高床式倉庫の復元

こんな巨大な倉庫がいくつも並んでいたのです

 

 

『大阪歴史博物館』の中からは

周辺の状況がよく見渡せます

南東方向に『難波宮跡』

阪神高速の北の更地の所が『内裏』の跡です

 

南から北へ(右から左へ)

視線を移していきますと

『大阪城』の外堀が見えてきました

 

ちょっとガラスが光って見えにくいですが

北東方向に『大阪城』が見えます

 

 

こちらはパンフレットの『難波宮跡』の図です

『前期難波宮(飛鳥時代)』と

『後期難波宮(奈良時代)』が重なっていますね

造営の際には二上山産の石も使われたそうです

 

『前期難波宮』は孝徳天皇の皇居で

『後期難波宮』は聖武天皇が唐に習って作らせた

平城宮の副都です

 

『難波宮』の都はとても広くて

南は天王寺辺りにまで及んでいたそうです

これからまだまだ新しい発見があるのでしょうね

 

 

↓パンフレットの年表です

火事のあった686年は天武天皇が崩御して

大津皇子が自害させられた年ですね

ただの失火か、それとも何あったんでしょうか

ちょっと深読みしてしまいそうです…

 

年表の下に『難波宮遺跡探訪』とありますので

参加してきました

 

 

ボランティアの方が案内して下さいます

『大阪歴史博物館』の1階には

館内と建物周辺に丸いタイルで

建物の柱跡が示されています

タイルの色で時代を識別できる様になっています

(↓前出と同じ図です)

 

 

地下には遺構の跡が保存されていました

 

『パイプルーフ工法』という方法で

地下にパイプをいくつも通して

遺構を下から支えているそうです

その下はなんと駐車場なのだそうです

 

遺構自体は少し見えにくいですが

灯りの柱が柱跡を表しています

 

塀で隔てられた外側(右側)は

一般の人達が普通に往来できたそうです

 

石組み水路の一部も保存されていました

 

『難波宮遺跡探訪』は

これでおしまいです

 

 

館内の展示に戻ります

10階から下へと降りながら見てまわります

 

 

10階 古代

人形がリアルすぎて今にも動き出しそうです

ここだけカメラ撮影OKでした

 

 

 

 

他には『難波宮』の模型や遺構

出土品などが展示されていましたが

あまりにじっくり見すぎて

9階の途中で時間切れでした

 

9階 中世・近世 

石山本願寺の時代

(さらっと見ました)

 

8階 歴史を掘る 

発掘現場の体験空間

(全然見れてません)

 

7階 近代・現代 

大正末期〜昭和初期の大阪再現

(全然見れてません)

 

 

私は『難波宮』を見られたら

それで良かったのですが

しまった、8階も何かあったのかな

見たかったな~

また行かなければですね

 

 

『大阪歴史博物館』なので

大阪の色んな時代の歴史を

展示されているのかなと思いましたが

 

 

私の誠に勝手な個人的な意見としましては

大阪城の事は『大阪城天守閣』に

大阪の街のことは『大阪くらしの今昔館』に

お任せしてしまって

こちらでは『難波宮』に特化した展示に

してはいかがでしょうかと思ってしまいました

(勝手な事を言って申し訳ありませんあせる

 

 

決して今の展示を否定しているのではなくて

『難波宮』はそれだけで

一つの施設を作ってもいいくらい

特別な価値があるとてもとても貴重な

遺跡だと思うんですよね

 

 

ど素人の私が

何だかとてもおこがましいのですが

何故か不思議なことに

この時代の歴史に言葉では言い表せない

特別な感情が湧いてきて止まないのです

 

 

前世で何かあったんやろか…なんか変な感じ

そんな感じです

どんな感じやパー

もうええわパー

ありがとうございました~

(今回は『なにわ』らしく漫才風に締めくくってみました)

 

 

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最後までご覧くださり

ありがとうございました

 

 

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