1日1聴「お箸の持ち方」 | ココロハレルヤ

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日々ふと感じたこと、思ったこと、考えたことを心のままに書いてみたいと思います

「お!お前、お箸の持ち方きれいだな」

久しぶりに

一緒に昼食をとった時

しゅたくんが

次男坊ちゃんに言ってた


はみです




家では

兄も姉もいる

次男坊ちゃん


中学生までは

毎日の稽古に

連れ回していたので

道場の仲間たちと

食事をとることもたくさんあった

我が家の子供達


たくさんの大人の人たちや

先輩

後輩と

過ごすので

まるで大家族のよう


しかも

仲間たちは

先生の子供だから

とかという分け隔てもなく

接してくれたので

ありがたい






さてさてお箸の持ち方に戻ります


わたし自身が

箸の持ち方が

独特なまま幼少期を過ごし

指摘されても上手く持てず

高校生くらいになってようやく

みんなと同じような持ち方になっていったので

次男坊ちゃんの箸の持ち方については

あまり気にならなかったため

ほぼ

ほったらかしだった


当時幼稚園児だった次男坊ちゃんに

「箸の持ち方が違う」

「なんだよ。お前、変な箸の持ち方しやがって」

と教えてくれたのは

先輩のしゅたくんだった


一緒に食べる度に

指摘され

泣きながら

不器用に食べてた次男坊ちゃん










あれから

共に食事をする機会が減り

10年の月日が経っていた









あの頃のことを

しゅたくんと懐かしく思い出して

笑った


あの頃

言ってもらったおかげで

次男坊ちゃんの中で

そこに意識が働き

いつの間にか

機能的な使い方になっていったのだろう

機能的な使い方は美しい


強制してしまえば

近道だったのかもしれないけれど

しても

しなくても

そこに

「相手を思う」気持ちの入った言葉は

小さな光の点のようなものになり

そこから

自力で

そのひとの中で広がってゆくのだろう


たとえ

そこに

言ったひと本人の

何かしらがあったとしても

わたしたちは

お互いの関係性のなかを

自分として生きているのだから

その中で

自分と向き合える


ひとの

どんな言葉でも

どんな態度でも

自分のなかで感じるのであれば

わたしの中に

何かがあるのだ


わたしは

そこを

問いかけて

解いて

ゆきたい


答えがあろうがなかろうが

解いてゆく過程が

楽しいのだ





あの頃泣いてた

次男坊ちゃんを思い出し


みんな

それぞれの思う

幸せで

豊かで

楽しい人生を

生きていってるんだなぁ


苦しいのもそのひとつ

辛いのもそのひとつ


なんだなぁ



その過程は

技の習得と同じ


稽古なのだ

毎日が


箸の持ち方も

日々の稽古も

やり方

だけれど

やり方が

在り方を問うてくる










きれいと言われて

驚き

嬉しそうな次男坊ちゃんの

照れた笑顔


しゅたくんの

思い出し笑いと

嬉しそうな笑顔


楽しいお昼となりました