日本の心 | ココロハレルヤ

ココロハレルヤ

日々ふと感じたこと、思ったこと、考えたことを心のままに書いてみたいと思います

最近
塾長が
「ラスト・サムライ」
の話を道場でされています

日本人の心
特に
さむらいの生き様、死に様を
見事なまでに
描いている映画です





はみです


そこからの
日本人特有の性質で

がまん
がんばる
わたしがやる

というものがあるけれど
今日は
ちょっとそこに
入ってみよう♪



がまん

我慢することって
戦争があったことで
意味合いが変わってきた気がするんだ

戦争に勝つために
お国を守るために
何ごとも選ぶことも出来ず
食べることもままならず
生きることさえままならず
我慢して
我慢して
我慢してきたのに
恐怖のどん底に
絶望の渦の中に



もともとの
我慢は
農耕民族だった
わたしたちのご先祖さまが
自分の思う通りにならないことや
自然の流れに逆らわず
ただ
その瞬間を捉えるために
ひたすら待ち続ける
それが
我慢
というものではなかったのかな

その先に
豊かな実り
が見えていた



戦争という
人の心の怒り悔しさ悲しみ苦しさ
その熱をおびた濁流に飲み込まれ

負けることで

やっと

わたしたちは
自分を愛することこそ
家族を愛し
周りの人を愛せるようになり
国を愛することに繋がると

この国のご先祖さまたちに
命懸けで教えてもらってきた


なぜ
がまんするのか
そして
がまんしすぎていないか
考えるのが大切なのではないのかな



がんばる



日々繰り返してゆくことで
はじめは
我慢しなくちゃできないことも
するすると流れるようにできるようになる

そうなる過程が
がんばる
の本来の姿なんじゃないかな

それは
日本古来の教育の基本である
お稽古が表している

日々
同じことを
繰り返し
繰り返し行う

ただただ
行う

その中で
現れてくるのは
自分の心の様
身体の変化

それらと向き合い
続けてゆく


旦那さんが

我が家の子供達にとって
合気道をすることは
生きることと同じ
毎日
息をして
ごはんを食べて
糞をして
それと同じように
稽古をするんだって

言ってたなぁ

そのことだったんだなぁ


積み重ねる過程の言葉なのに
いつの間にか
期待を込めて
使い始めたあたりから
そうならなきゃいけない
くっついて
がんばることが苦しいものに
なってきたのではないかなぁ

がまんを
がまんしなくてもいいように
やってゆくことが
がんばる




そして

わたしがやる

がんばればできるわたしがいて
ほかのひとが
がんばってくれない
がんばっても
わたしが思うような成果を
ほかのひとが出してくれない

そんなところからの
わたしがやる

だと
しんどいよね


我が岡山県出身の芸術家
 平櫛田中 の座右の銘

いまやらねばいつできる
わしがやらねば誰がやる

父が好きな言葉だったなぁ

これは
もう
心屋式で言うところの

やりたいことやろう
今やろう

なのだよね
それぞれのやりたいことが違うから
やりたい時期が違うから

そう思った
そう思った
わたしがやりたいことやろう

やりたくないことまで
やらなくて
いいんだろうね

ほかのひとの
やりたいことを
奪っちゃうかもしれないもんね





感じていくと
もともとの日本人の心は
世界のどの国にも
引けを取らない
素晴らしいものだ

かといって
あの熱をおびた戦争時のような
どの国よりも秀でている
なんて思うこともない

その国
その国の
歴史があって
特徴もある

みんなで
この地球を
生きている






日本人って
純血のって意味じゃないからね

わたしは
日本人って思えば
どなたでも

本来の日本人は
おおらかなのだから







日本の事が
大好きで
愛してやまないひとたちが
誇りを持って
生きられますように

そして
大和魂が
世界中の人々の
心の小さな片隅までも
照らしますように



そんな
願いを込めて















ニホンノココロ
オカゲサマ
モッタイナイ
アリガトウ