気づき(その2) 「理解」 | 【名古屋】魂の覚醒と思いの言語化で野望を実現

【名古屋】魂の覚醒と思いの言語化で野望を実現

「強み」と「思い」の言語化で、「野望実現」を引き寄せます。 ホンマルラジオ愛知局【TOMOKO のあなたの野望を聴いてみ隊】パーソナリティ

土・日の人間ウォッチングで得た気づきの、その2「理解」です。


お昼ご飯を食べているときの話。


元の職場の人間関係…的なお話になって


そのタイミングでその部屋に行くことになったのも何かのメッセージだと・・・


まず、「何度注意しても、同じミスを繰り返す部下」の話


あまりにも同じミスを繰り返すので、しまいには、注意することがストレスになって来た…という。


その事象の因果関係はさておき


このことを「象徴的」にとらえる選択をした場合


「相手がわかってくれない」ということは


「自分が相手をわかっていない」ことの裏返しなのではないか、と思いました


何度言っても理解して“くれない”と感じたときには


まずは自分が相手を理解しているのか? と考えてみる


「自分の言葉」ではなく「相手が理解できる言葉」を使っているのか?


子供に説明をするときに、大人の言葉で説明しても理解できません


外国人の方に説明するときには、外国語で説明しなければ理解できません


まれに、子供でも大人の言葉わかる子もいますし


日本語が堪能な外国人の方もいらっしゃいます


しかしながらそれは例外的なことで


相手に伝えたいと思ったら


やはり、相手にわかる言葉を使うのが原則でしょう


部下は、この場合年少者でした


若い方に年長者の経験値にまで上がってきて理解しろ、というのはムリなことが多いです


年長者が下がっていく方が、話は簡単だと思います


人を育てたり、組織の人材育成におけるノウハウとは必ずしも一致しないかもしれませんが


この場では「象徴的に受け取る」のであれば


まず、自分の内面をよく観察してみて


他者を理解する、ということができているのか


「思いやりを持って接することができている」のか?


そのことが欠けているから「相手が理解しない」という事柄が起きているのではないか?


と、考えてみることもできると思います


引けば開くドアを


押しても押しても開かないとイライラして


もっと力いっぱい押してもやっぱり開かないから、キーーーーッ!


となっている様子が目に浮かびます


少し俯瞰して、引いて考えてみれば


「もしかしたら、これは自分が考えた方法(選択)が間違っているのかもしれない」


という考えに至るような気がします


集団のルールに反した行動をとっている人をみかけて


注意をするか、しないか、という選択に迫られたとき…


注意をする、という選択をしたときに


集団が受ける損害が、客観的なモノであれば、本人も比較的受け入れやすい気がします


ところが往々にして


「他の人は我慢している」


「普通はそういうことはしないものだ」


「常識で考えればわかることだ」


というアプローチをしがちな気がします


こういう場合、「価値観の相違」によるものと受け取られ


聞き流しておけばいいや…


と思われる可能性もあります

 

バレないように工夫をしている…としても、それは


「その集団のみのローカルルール」には反している、と思っているダケで


本当に悪いことだ、とは思っていないワケです


それが、その人の価値観であり、周りから見ればその人は


「自分自身の常識の枠の中だけで生きていて周りに迷惑をかけている」


ワケですが、その人の側から見たときには、


その集団のルール、あるいは個人のルールにとらわれて、その尺度でもって


別の価値観を持った人を裁いている


という事態になっているワケです


自分の価値観や常識で人を裁いたり、判断していることが多いと


目の前にそういう「ルールを無視して、平気な顔をしているし、注意をしても直そうとしない」


という「教師」が現れるのかもしれないなー


…と、つらつら思っていました。


20年以上前に、私自身が「OL」をやっていたときは


同じようなことで悩んだりもしていましたが


21世紀になっても、「OL」という人種は


そういうことで愚痴をいいまくっているのだなぁ…


と、感慨深かったです^^;

 


今日も読んでくださって、ありがとうございました^^