【四無量心】 | 【名古屋】魂の覚醒と思いの言語化で野望を実現

【名古屋】魂の覚醒と思いの言語化で野望を実現

「強み」と「思い」の言語化で、「野望実現」を引き寄せます。 ホンマルラジオ愛知局【TOMOKO のあなたの野望を聴いてみ隊】パーソナリティ

今日は、お寺の写経会に行って来ました。

 


筆ペンを使って、“一番短いバージョン”の般若心経を写経しました。

 


実はちょっと遅刻してしまいまして、到着した時には、お香を使って身を清めるステップの最中でした。



 


遅刻したおかげで

 


(イケメン)老師さまのすぐ前のお席で

 

 

(イケメン)老師さまにマンツーマンで

 


お清めの作業を教えていただける、というありがたさっ!(←煩悩全開)


 


写経の時間は、老師様は一番後ろの席に座られるのですが、目の前には竹林&杉苔のお庭がひろがって

 


まことにすずやかな風景の前で写経をさせていただくことができました

 


かなりのハイスピードのおかげで


 


皆さんが書き終わるのと同時くらいに書き終えることができました


 


筆ペンだったので早かったせいもありますが…

 


途中、正座が厳しくて

 

 

足のジンジンに耐えながら写経する、という情けなさ(涙)

 


でも、書き終わって時計をみたら、大体30~40分くらい無心で写経してたので

 

 

それはそれで良かったかなと思います

 

 

写経の後は、自分の写した般若心経を見ながら1巻(←でいいのかな?)唱和します

 

 

自分の字をみて、自己をみつめる…といったところでしょうか

 

 

その後、老師さまから少しお話をうかがいます

 

 

前回の瞑想会のときもそうでしたが、今回もまたとても良いお話をうかがうことができました

 

 

“四無量心”について、です

 

 

最初「シムリョウシン」とうかがって、頭の中で漢字変換が全くできませんでした

 


4つの「無量」の心、という意味だそうです

 


その4つは、それぞれ“慈”“悲”“喜”“捨”です

 


“慈悲”“喜捨”と2文字ずつの熟語として使うことが多いけれど、元々は1文字ずつちゃんと意味がある言葉なのだそうです

 

 

“慈”はいつくしむこと

 

 

“悲”は寄り添うこと

 

 

“喜”は喜ぶこと

 

 

“捨”は惜しみなく施すこと

 

 

という意味だそうです

 

 

“悲”という字は、他人のために悲しむ…ということもなくはないけれど、ただ一緒に「悲嘆にくれる」ということではなく、そっと寄り添って一緒にいてあげる、ということのようでした

 


最近、自分が考えていることとシンクロする部分があって、このお話をうかがっている時に、涙ぐみそうになりました

 


この(イケメン)老師様、とっても素敵なお話をときどき噛むので(笑)、出かかった涙もひっこみますが、そこがまた(失礼ながら)お可愛いらしく、この方の魅力でもあるんだな、と思います

 


また、“捨”はモノをぽいっと捨てるという意味ではなく、けちけちしない、とか出し惜しみしない、ということで、惜しみなく(愛を)施す、ということのようです

 

この老師様は、本当に説明が簡単でわかりやすく、お若いのによくお勉強されているんだなぁと思います

 

 

そこがまたこの方の魅…(以下、同文)

 


ところで

 


人は誰も彼も過ちを犯すものだと思います

 


過ちとわかっていて犯すものもあるし


 

本人は過ちという意識がまったくない場合もあります



 

ときに人間関係で


 

友人だから、良かれと思って過ちを指摘したのに



 

逆にキレられて(あるいは、不愉快に思われて)、友人関係が悪くなってしまう



 

なんてことがありますよね




 

あなたは


 

勇気を振り絞ってお友達のために言いたくないことも言ってあげた


 

なのにその気持が届かずに悲しい思いをする

 

お友達は

 

信頼している友達に不愉快なことを言われて悲しい思いをする


 

こんな理不尽なことないですよね


 

でもあなたとしては、友達の過ちを指摘しないでおいて良いものか悩んだ挙げ句


 


指摘する選択をした…


 

誰にも悪気はなかったのに悲しい結果に終わってしまう


 

じゃぁ、どうすればよかったのか


 

何もいわずに、ただ寄り添ってあげれば良かったのです


 

友達が気づかないでそのまま落ちていってしまったら???


 

気づいていたのに、そのまま見過ごしてしまった責任は???


 

だから、そのときもただ寄り添ってあげれば良いのです


 

友達だというならその人が良いときも悪い時もすべて受け入れて

 

いつもそばに寄り添ってあげること


 

人にはそれしかできません


 

間違いを正すのも


 

あやまちを指摘するのも


 

人の領分ではないのです


 

人の過ちは“神”が正してくれます


 


そのときその罰を受けている友達から離れずに寄り添っていてあげる


 


それが友情だと思います


 


「ありのまま受け入れて、ただ寄り添う」


 


それは、簡単なことではありません

 


本当に難しいことです


 


でも人が人を変えることなどできないのです


 


人は自分を変えることしかできません


 


自分の心持を変えるだけで


 

 

関係ないと思われる周りが変わっていきます


 

 

急いで走ったり慌てる…ということをやめたら


 

 

地下鉄のホームで人にぶつかられて不愉快なことが減りました


 

 

チケットの心配をしなくなったら、難関といわれるチケットも取れるようになりました


 

 

仕事の心配をしなくなったら、お仕事のお話をいただくようになりました


 

 

次はお金の心配をしないでおこうと思います(爆)←


 


このブロックが…(ToT)





 

 


ところで、今日写経会に遅れてお部屋に入って行ったのですが、この前仲良くなった方に、終わってからちょっと嬉しいことをいわれました

 

 


「haruさんがお部屋に入ってこられたときに、お部屋がぱぁ~っと明るく華やかになった気がしましたよ」と

 

 


派手な花ガラのトップスに真っ黄色のパンツを穿いていたのですが…(汗)

 

 


「は、派手でしたかね(汗)」というと

 

 


「そういうことじゃなくて、空気が変わりました」(^^)

 

 


とおっしゃっていただきました




彼女とも、ちょっと不思議なシンクロをしていて、今月から中国語をお教えすることになったのですが、それも、半年前…いや、3か月前の私だったら、きっとお断りしていただろうな、と思うのですが、このタイミングで出会ったことがすごく不思議な“必然”でした

 

 


目的と受講希望期間を聞いて、希望到達目標を設定した、オーダーメイドレッスンみたいなものができないだろうか…と、考えていたタイミングで彼女が飛び込んできたのでした


 


完全に「まず、彼女でお試しさせてもらいなさい」って事ですよね





少し前だったらお断りしてたと思うー




と言うと






「まぁ! 私、なんてラッキーなんでしょう♪」






とおっしゃってくださったのですが







ラッキーなのは、私の方です!(断言)

 


 

 

そして、彼女とはいろんなお話もさせていただいて


 

 


「“悲”の説明で泣きそうになった」ことを話すと、「同じですー!」と

 

 


席が離れていたから、泣かなかったけど、もし彼女と隣同士だったら、共鳴して二人で号泣してたかもしれないね、と笑ってましたが

 

 


きっと、何か思うことがあって、そこの部分で共鳴したんだな、ととても感慨深いものがありました

 

 

“慈”も“喜”も“捨”も全部大事だけれど、“悲”の気持を持てる人になりたいな、と思います

 

 

ちなみに本堂で不動明王様にいただいたメッセージは、「ふわ~っと受け入れる」


 


弘法大師さまにいただいたメッセージは「ふわ~っと涼しげに」

 

 


でした。

 

 

がむしゃらに! とかじゃなくて、ふわ~っと。

 

 

あーだ、こーだ、判断するんじゃなくて、そのまま「はい」と受け入れる。

 

 


受け入れた後は、どーしよー、こーしよー、と焦ったりしないで

 

 


ただ、涼しげにそのまま“在る”ということでしょうか

 

 

 

やっぱ、最近のテーマは「ふわ~っと」みたいです

 

 

 

ありがとうございました\(^0^)/