虹を見た。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 先日の休日、久しぶりに虹を見た。
 夕立ちが通り過ぎたのを見計らい、室内でのストレッチ運動および筋トレ後、洗濯機に回していたトレーニングウェアを物干し竿に掛けようとベランダに出たら、そこから見える景色に虹が出ていたのだ。最もほとんど雲に隠れていてごく一部。虹の架け橋とまではいかなかったが、それでも虹は虹だ。視界にふと現れれば、やはり心ときめく。
 見下ろせば塀の上を歩く野良猫が視界に入ったり、風に舞うビニール袋とカラスが目の前の宙で戯れていたり、更にはどこをどう伝って歩いてきたか、ベランダの手すりの上にカマキリが歩いているのを見たこともある。
 そして今回、何度目かの虹。
 こんな風に予期せぬものをベランダに見る度、つくづく思うのだ、ここからの眺めを心より大切にしよう……と。ここが僕の、僕だけの世界なのだ……と。
 病牀六尺。おのれの日常が小さく卑小に感じる時、いつも晩年の正岡子規を思う。子規の生きる姿勢に思いを馳せて自分を慰み励ます。
 病の進行に寝たきり状態となった子規。もちろん妹さんを筆頭とする家族の介護、更には周囲の協力もあってこそではあるが、身動きも取れなくなった日常で、それでも病床から僅かに眺めることが出来る庭を懸命に観察して、感受したものを歌い且つ句に託した晩年の子規は立派だった。そして豊かだった。
 生きよう……ベランダの虹に心託して、改めてそう思った。今後ますます閉ざされてゆくばかりで、もう開かれてゆく可能性はない日常。それでも子規のように己の日常に最後の最後までこだわり、僕も又、自らを最期まで全うしたい。生き切ろう……と。
 それにしても虹は良い。時折こんな風に現れる虹は日常を堪えて何とか生きのばす存在への天からのご褒美に感じることもある。生きていれば虹が見えるって、Mr.ChildrenだったかMr.Childrenもどきだったか、どこかのバンドがそんなことを歌っていた気がする。実際Mr.ChildrenだったかMr.Childrenもどきだったかに限らず、生きる希望としての虹は古今東西あまた表現されてきた。特に珍しいわけでもないベタなモチーフだ。しかし逆に言えばそこに一つの真理が内包されているからこそ、希望としての虹は繰り返し表現されてきたのだ。
 たかが虹でも生きていればこそ見える。もう虹さえ見えない場所へ自らを葬った君をふと思い出しながら、虹を見るベランダで風に吹かれた。夕暮れ時のひと雨に暑さも和らいだと気づく。